猫弁 天才百瀬とやっかいな依頼人たち 完全版 大山淳子 [#(img/01_表紙.jpg)] [#(img/01_001.jpg)] 受賞のことば  こどもの頃からヒーローにあこがれていました。  ヒーローに救われるお姫様ではなく、ヒーローになりたかったのです。 「かっこよさってなんだろう」って、ずっと考えてきました。  そうして主人公・百瀬太郎が生まれました。  彼はお金持ちでも成功者でもありませんが、「こんなふうに生きたい」というわたしの夢を一身に背負っています。  小説が大賞に決まったとき、夢に居場所が与えられたような気がして、うれしかったです。  登場人物ひとりひとりに心をこめました。  読むと、あたたかい気持ちになって、元気が出る。  そんな作品を書いていきたいです。 [#地付き]大山淳子   [#改ページ]       目 次   第一章 前頭葉のすきま   第二章 シンデレラの黒い靴   第三章 迷子の霊柩車   第四章 大福亜子の憂鬱   第五章 死体の身代金   第六章 黄色いドア       装画 カスヤ ナガト       挿画 北極まぐ       装幅 next door design       印刷 豊国印刷株式会社       製本 大口製本印刷株式会社       協力 北川雅一(TBSテレビ) [#(img/01_003.jpg)]    第一章 前頭葉のすきま  平日の早朝、東京行きの新幹線『のぞみ』に、新大阪駅から多くの客が乗り込んで来る。  車内はビジネスマンたちで満席だ。  そこへ、ふたりの珍客が異質な空気を持ち込んだ。 「席、ないやん」 「うそや、ちゃんと切符あるで」 「切符あるのに席ないわけないやん、探そ」  ふたりとも不必要に背が高い。ひとりはやせているが、もうひとりはかなり横幅があり、通路を窮屈《きゅうくつ》そうに歩く。 「満席や」 「そんなはずあらへんて」  座っているビジネスマンが声をかけた。 「この車両は自由席です。指定席はもっと前の車両ですよ」  するとやせた方の男が券を見せながら答えた。 「おれたち自由席ですねん。自由な席を二枚買うてます」  ビジネスマンは意表をつかれた顔をした。自由席なら見ればわかる通り満席である。  やせた男はさらに言う。 「新幹線てけったいな乗り物でんな。席を指定されると高うて、自由に選べる席のほうが安いなんて、不思議な価格設定ですなあ。好きな席選べたほうがええですやろ」 「あの」  ビジネスマンは説明しようかどうか、迷っている。このまま見過ごしてもよいのだが、車両全体の空気として、いわゆる民意、一車両内限定民意であるが、このおかしな男の話をもう少し聞きたいという空気を感じるのだ。 「新幹線は初めてですか」 「はい! ごっつう楽しみで、はりきって駅弁も買うてきました」  やせた男はふたつの幕《まく》の内《うち》弁当を掲げて見せた。  するとそれまでおとなしかった太った方が口を出す。 「もっとええ顔してる思たら、妙な顔してはりますなあ」 「なんのことや」 「のぞみはんや」  乗客はくすくすと笑い出す。 「かものはし、みたいでんなあ。がっかりやで」太った方は、ためいきをつく。 「想像とちごたよな」やせた方も頷いている。  乗客のくすくすはさざ波のように広がった。  その後、親切なビジネスマンの説明で、自由席券は特急料金であり、席を確保するものではなく、席が足りない場合は立つこともあるとわかり、やせた男は憤慨《ふんがい》した。 「席という名の券売っといて、席足らんこともあるて、詐欺《さぎ》ちゃいまっか。こんな高い金ぼったくっといてからに、立ってろ言うんでっか」  興奮して手を振り回すので、太った方は駅弁の安否が気になるらしく、やせた男の手から奪い、両手でかかえた。駅弁の安全を確保すると、太った男も不満を口にした。 「がっかりや、かものはし。顔もあれやし、腹も黒い」 「値切ったればよかった」 「大金つこて、立ち食いや」  車両中に広がったくすくすのさざ波に見送られ、ふたりはデッキに出て行った。  やせた男は流れる景色を見ている。  太った男は弁当ふたつをかかえたまま、床にぺたりと座っている。  やせた男が言った。 「おまえ、腹、平気か?」 「すいた」 「そうやなくて、傷や」 「ようわからん。それよか、腹へった」  やせた男はほっとしたように言った。 「食ってええぞ」 「ほんま?」  太った男はうれしそうに駅弁の包み紙をむしり取る。やせた男は流れる景色を食い入るように見つめていた。      ○  百瀬太郎《ももせたろう》はとことこと、からくり人形のように均質なリズムで歩いている。  華奢な体に安っぽいグレーのスーツ、鼻先にはごつい黒ぶちの丸めがねがひっかかっている。くせの強い前髪は歩くたびにそわそわと、まるで居場所を探すかのように落ち着きがない。  ここは新宿副都心から少しはずれた歩道である。まだらに濡れた路面には、葉もの野菜のくずや、新聞の切れ端などが、そこかしこにへばりついている。  若い女や並の衛生観念をもつ男なら、ハンカチで鼻と口を覆うだろう。それほどの匂いがするが、百瀬は若くもないし、女でもないし、たいした衛生観念もないのだろう、意に介さず歩いている。  百瀬をとりまく現在の外界において、唯一|冴《さ》え渡《わた》っているのは空くらいなもので、それはもうここぞとばかりに、スコーンと青い。  青い空、白い雲。子どものお絵描きのように単純明快な配色だ。  百瀬はせっかくの青空にも気付く様子がない。何かに心を奪われているようだ。それでいて、さしせまった一大事(あるとしたらだが)を東大出の性能の良い頭でくるくると処理しているようにも見えない。  やがて百瀬の歩はカタッと止まる。  とりもちにくっついた鳥は、おそらくこんな顔をするだろう。  そっと右足を路面から剥《は》がしてみる。くたびれた黒の革靴の底に、チョコレート色の軟体物質がくっついている。本体は、路面になみなみと残されている。  百瀬はそれを見て、やっと、ここら一帯に漂う臭気に気付いた。  重そうな丸めがねを右手の中指で定位置に戻し、臭気のモトを見つめる。  犬のものではない。大きさからすると、おそらくこれはがたいの大きな人間、それも、男のものに違いない。男はおそらく一週間は便秘しており、おおらかな性格で、出なくても食べ続け、そして一週間目の今日、急にもよおしたに違いない。  家を出る前にいきんでみるという計画性もないその男は、しかるべき場所を探す余裕もなく、ガード下の人目につかないここで実行した。実行したものの、拭くべき紙がなく、ハンカチを持っていたとしたらそれで拭き、おおらかな性格により「洗ってまた使えばいい」と考えて、ポケットに仕舞ったに違いない。  だからこそ、これだけ大きな軟体物質が堂々と、ここにあるのだ。そして男は花粉症ではない。この時季にティッシュを持ち歩かないのだから、そう考えられる。そもそも花粉のような、目にも見えない細かな粒子に反応する繊細な体質なら、このような落とし物を公共の場に残したまま平気で社会生活に戻れるはずがない。  推測を終えると、百瀬は顔を上げた。 「万事休すのときは上を見なさい。すると脳がうしろにかたよって、頭蓋骨と前頭葉の間にすきまができる。そのすきまから新しいアイデアが浮かぶのよ」  そう母親に教わったからだ。  結果的に、百瀬はガードの底を見上げる格好になった。ほんの五メートル手前でこの惨事が起きたなら、青空が味方になってくれたに違いない。  顔を上げたら底が見えて、底より下に自分が位置していることを思い知った百瀬は、二番底という言葉が浮かび、悲しくなった。 「底《そこ》のお兄さん」  声がした。見回すと、ガード下の壁沿いに店を広げている老婆がいる。 「こっちへおいで」  老婆は手招きしている。 「底のお兄さん」と聞こえたが、ただ「そこのお兄さん」と声をかけたに違いない。  百瀬は呼ばれるままに近づき、老婆の店を見た。  物売りではない。「くつみがきます」と墨文字で書かれた板が、木箱に立てかけられている。木箱は横に積まれている道具一式が収まる大きさで、底にキャスターが付いている。木箱も看板も老婆も、まるまる一世紀は経っているかのような貫禄がある。  老婆は金属製の四角い箱に腰をかけている。その金属だけが、せいぜい半世紀かそこらの、「若造」と揶揄《やゆ》されそうな新鮮な肌を持っている。金属に座るなんて、尻が冷えないだろうか。  百瀬は木箱に座るように指示され、座った。するとちょうどいいあんばいに足を差し出す格好になる。木箱は客用の椅子を兼ねるようデザインされている。  老婆はみごとな手さばきで百瀬の右足の靴から軟体物質をすっかり拭き取った。古いやわらかめの布で、またたく間にぬぐったが、老婆の手はその指先に到るまで全く汚れることはなかった。  老婆は素手だ。体はほっそりと、ボストンバッグに入りそうなくらいに小柄だが、手はしっかりと骨太で、片手で大の男を絞め殺せそうなくらいの握力を感じさせる。  次に老婆は、足台の上に百瀬の靴を置く。  もちろんその靴は持ち主の足が入ったままなのだが、体勢に無理は無い。木箱の椅子と足台の位置が絶妙で、体がぴたっとはまり、「このままでいたい」と思えるような姿勢になった。  老婆は百瀬のズボンの裾を二つ折りにめくり上げ、靴下と靴のすきまに厚紙を差し込むと、そばにあったペットボトルをにぎりしめ、中に入っている透き通った液体を靴にかけた。 「あっ」  革靴に水!  百瀬は、軟体物質を踏んだ時よりも驚いた。とりもちにくっついた鳥以上のショックだ。  ペットボトルには『アルプスの岩清水』というラベルが貼ってある。百瀬の常識では「革に水は御法度」だが、岩清水ならいいのだろうか。  老婆は不敵な笑みを浮かべた。 「心配するでない。これは岩清水ではない」 「水じゃない?」 「正真正銘、水道水だ。ちょいと先の公園の水道でいれたから、ただだ。もったいないと思わなくてもいいぞ」  やはり革に水だ!  百瀬は抵抗を試みたが、老婆の左手ががっちりと足首をつかみ、動くことは不可能だ。老婆はスポンジに青い液体をつけ、泡立ったそれで靴を洗い始める。 「ははは」百瀬は力なく笑った。ここまでされるともうどうでもいい、まかせてしまえという気分になる。  老婆はほっそりとしたうりざね顔で、髪は潔《いさぎよ》く真っ白、それを一筋たりとも逃すことなくぎゆっと頭頂部でまとめ、白いお団子《だんご》を作っている。手は一定のリズムで動き、そのたびに頭頂部のお団子がぷるぷる震える。  百瀬は目が回ってきた。  老婆は言った。 「見合いにバッジをはずしていくのはどういった了見かな?」  百瀬はぞっとした。 「一般論を聞いているんじゃないんだ。お前さんがなぜ見合いにバッジをはずしていったかを聞いているんだ」  百瀬は上着の左襟《ひだりえり》を見る。バッジはない。バッジをしているものだと、今の今まで思っていた。  上を見た。あいかわらずガードの底である。  母親に教わった方法で脳を活性化しながら考えてみる。  この老婆はなぜ自分が見合いをしたと知っているのだ? 顔に書いてあるのだろうか。それに、バッジだ。バッジをする人間だとどうしてこの老婆にはわかるのだろう? 「見合いならば、一般的にはバッジをしていくものだと思います」 「一般論を聞いてるんじゃないと言ったろう? まあ、いい。では、一般的にはなぜしてゆくのか?」  老婆の追及はやまない。百瀬は被告人の気持ちに近づけたような気がする。 「会社員だったら、社章は身分を証明するものだし、見合いは身分を証明し合ってするものだからです」 「じゃあお前さんがバッジをはずして行ったのは、身分を隠したかったからか?」 「いえ」  百瀬はふーっとためいきをつく。自宅を出る時はしっかり襟元にあったバッジだが、朝、事務所に寄って仕事を片付け、午後外出する際に、上着を取り替えたのである。  今日の見合いの相手はかなり若い。二十代だ。若いということは、五感が発達しており、特に嗅覚《きゅうかく》は敏感だ。親父臭さを嗅ぎ取り、嫌悪《けんお》されるのではないか。そう考えて、スーツの上着を取り替えたのだ。 「バランスが悪い」老婆は言った。 「お前さんは頭と足を使う商売と見た」  百瀬はしだいに老婆の言葉に惹き込まれてゆく。 「商売はうまくいってないだろう。お前さんの頭は高性能だが、心がそれを扱いかねている」 「どういうことですか?」 「だからバランスが悪い」 「はあ」 「お前さんの頭脳を効率よく活かすには、お前さんの心がヤワすぎる、ということだ」 「どうしてそんなことがわかるんですか」 「靴を見れば、その人間のことはたいがいわかる」  老婆は自信たっぷりに宣《のたま》う。  百瀬はハタと気付いた。右足の靴がいつのまにか新品になっている。履き替えた記憶は無い。こんなに美しく蘇《よみがえ》るものだろうか?  百瀬は思わず立ち上がり、足を揃えて比べてみる。まるで新品と中古品が並んでいるようだ。  老婆はにやりと笑った。  百瀬もつられてにこりと笑った。  すると老婆はいきなり道具を片付け始め、百瀬がさっきまで座っていた木箱にぴたりと入れてしまった。  百瀬はおどろいて「左は?」と聞くが、「時間切れだ」とにべもない。 「もう店じまいですか!」 「お前さんの時間切れだ」  百瀬は腕時計を見た。三時四十五分である。 「あっ!」  百瀬は四時に約束した依頼人のことを思い出した。なぜこの老婆は約束があるのを知っているのか。靴がそこまで語るのか?  疑問はさておき、依頼人を待たせてはいけない。 「お代は」あせりながら尋ねると、「残りを仕上げたらいただくさ」と老婆は答える。 「明日来ます」言いながらもう百瀬は走り出した。      ○  東京は中央区の東園寺《とうえんじ》で社葬が行われている。  遺影は不鮮明だ。証明写真を大きく引き伸ばしたのか、にじんだようにぼやけている。白髪の老婦人であることはわかる。故人が老齢だからだろうか、泣き崩れるものもなく、からりとした天気も手伝って、とんとん拍子に葬儀は進む。残すは喪主《もしゅ》の挨拶《あいさつ》だけとなった。  スタンドマイクの前に立つ男を百人を超す参列者が見つめている。五月の日射しをまともに受けて、人々はまぶしそうに目を細める。  喪主は五十を過ぎた中年男で、上から押しつぶしたように背が低く、幅広な体型で、黒くたっぷりとした髪を七対三の割合で左右に分けている。時たま声を詰まらせたりして、涙をこらえながら挨拶をしている。涙をこらえながらというのは喪主のたしなみなので、本当に悲しいのかどうか傍目《はため》にはわからない。 「本日はご多用の中、ご焼香《しょうこう》をたまわり、誠にありがとうございます。亡き会長は、生前みなさまにたいへんお世話になっており、今日のお運びを心から感謝していると思います。会長・三千代《みちよ》が戦後一代で築き上げたこのシンデレラシューズを、社長であり、息子であるわたくしが、力の限りを尽くして引き継いでゆく所存でございます。みなさまどうぞ、今後もわたくしどもへのご指導ご鞭撻《べんたつ》、よろしくお願い致します」  喪主の名は大河内進《おうこうちすすむ》。遺影の老婦人・大河内三千代のひとり息子である。そばに立っている洋装の喪服の女性はどう見ても二十代で、妻にしては若すぎる。和風美人で、目尻がすっとつり上がっている。「社長」と言いながら、ハンカチを渡している。どうやら秘書のようだ。  大河内は秘書から受け取ったハンカチで銀ぶちめがねの奥を押さえた。涙は見えないが、息子なのだから本当に悲しいのだろう。この所作で短すぎる挨拶に「。」を打った形になり、参列者は霊柩車《れいきゅうしゃ》の方へと移動し始める。雲柩車は樹齢七百年の大ヒノキの下で待機している。 「社長、準備ができましたので、ご乗車を」  秘書は大河内に遺影を渡し、背中に手を当てる。妻が見ていたら不快になるであろう、なれなれしさがある。どこにいるのか、妻らしき人影はない。秘書の誘導に従って、大河内はゆっくりと歩き始める。  するとひとりの男が大河内に近づいた。スーツを着慣れていないのだろう、ネクタイの結び目はねじれ、ズボンの裾は長さが足に合っておらず、余っている。 「会長にはお世話になりっぱなしで」  男は言いながら、ワッと、子どものように泣き出した。本当に泣いている。 「桜井《さくらい》」  大河内は男の嗚咽《おえつ》に当惑する。  桜井と呼ばれた男は、ぐっつ、ぐっつとしゃくりあげる。 「社長、お願いだ、ひと目でいいから会長の顔、おがませてくれ。さよなら言わせてくれ」  桜井はじべたにうずくまり、土下座《どげざ》をした。髪は真っ白で、後頭部は地肌が透けている。大河内はしゃがみこみ、「もう柩は車の中だ」とささやく。 「頼む。ちゃんとお見送りしたいんだ。頼む、頼む、頼む」  桜井は額を地面にくっつけて念仏を唱えるように繰り返す。  大河内は桜井の耳に口を近づけ、「おふくろに世話になったというのに、葬儀に水をさすつもりか」と脅すように言う。  桜井ははっとして、顔を上げる。額にはりついた小石がぽろりと落ちた。 「たったひとりの肉親を失ったわたしの気持ち、あんたにわかるのか」  大河内は言い捨てて、立ち上がる。 「ぼっちゃん、ごめんなさい」  桜井は顔を小刻みに揺らしながら下を向く。  すでに参列者のほとんどが霊柩車を囲んでいる。秘書も霊柩車の後ろで待機している。霊柩車は今では珍しい宮型の大型リムジンだ。  突然プワーッとクラクションが鳴り、参列者はあわてて手を合わせる。霊柩車はゆっくりと発車し、「さよなら、会長!」と、声がかかる。  秘書は大河内がいつ乗り込んだのか、気付かなかった。手を合わせたまま、後ろを振り返ると、大河内はまだ桜井といて、驚いたようにこちらを見ている。  秘書はあわてて霊柩車を呼び止めようとするが、間に合わない。大型リムジンは、霊柩車らしからぬスピードで、あっという間に消えてしまった。  秘書の美しい顔がひきつる。美しい女の怒った顔は、そうでない女の怒った顔よりはるかに恐ろしい。大河内に走り寄ると、 「社長! まだ乗っていなかったんですか!」  小声ながらヒステリックな声を叩き付ける。 「喪主を置いて行くわけないだろう」  まさかのことである。打ち合わせでは、喪主である自分が助手席に乗り、みなに見送られる形で発車するはずであった。しかし霊柩車はすでに無い。  参列者は異常事態に気付かず、すべてが終わったと、散り散りになっている。火葬場は身内だけでと言ってあるので、マイクロバスも出ない。社葬はここまでで終了だ。  大河内と秘書は呆然と立っており、桜井はマイペースで泣き続けている。  そこへ、制帽をかぶった白い手袋の男が通りかかる。男はズボンのベルトを調整しながらふらふらと歩いてくる。その格好はあきらかに運転手だ。 「あれ? 車が無い」  白い手袋の男はあわてる。 「君は霊柩車の運転手か」  大河内が尋ねると、男は頷き、姿勢を正す。 「本日は大河内家のお車担当です」 「担当違いじゃないのか」 「いえ、間違いなくわたしです。いったん運転席についたのですが、急に腹の具合が悪くなって、トイレに行ったんです。喪主様がご挨拶をなさっている間です」 「別の運転手と代わったんじゃないのか」 「まさか。打ち合わせをしたあと進行係から鍵をもらうので、勝手に代わるなんて、そんなことはありません」 「鍵は差したままだったんですね?」  秘書が確認すると、運転手は頷いた。  大河内と秘書と運転手は、さきほどまで霊柩車があった場所を見た。大ヒノキが風に葉を揺らし、灰色のアスファルトが広がっている。参列者はもういない。 「盗まれた?」  大河内はぼそりと言った。 「柩泥棒?」さすがに泣き止んで、桜井がつぶやく。  運転手はこぶしを握り、叫ぶ。 「霊柩車ジャックですよ!」 「霊柩車ジャック? そんなもの、あるのか」  大河内は怒ったように問いただす。 「聞いたことはないです」  運転手は白い手袋をはずして、はめた。それから制服のボタンをはずして、はめた。そのあと帽子を脱いで、かぶった。動転して、とりあえず、やれるだけのことをやってみる。  商売道具をなくしたら、明日はない。鍵を渡された瞬間、管理責任は運転手に移譲するという、労働契約書にサインした記憶がある。まずい。しかも、キャデラック・リムジンを改造した日本にふたつと無い超高級霊柩車だ。  クビになるかもしれない。なるだろう。するとまた自分はタクシーの運転手に舞い戻る。タクシーは今、有り余っている。駅前でまちぼうけをくわされる日々がやってくる。 「警察に届けましょう」  運転手はごくまっとうな判断を口にする。必死だと頭がまっすぐに働くのだ。 「警察?」  大河内と秘書は顔を見合わせる。  それは、避けたい。ぜったい、避けたい。  大河内は遺影を見た。輪郭《りんかく》も目鼻もにじんだようにぼんやりとしている。にじんだ母・三千代は、うっすらとした笑顔で息子を見上げ、「ばかむすこ」と笑っている。      ○  新築ビルのはざまに、ひびだらけの三階建て黄土色のビルが、申し訳なさそうに存在している。一階のドアには、ぺらっと半紙が貼ってあり、その半紙に黒々と、太い墨文字が書かれている。達筆だ。 『猫弁《ねこべん》』  これだけではなにがなんだかわからないが、補足するように、細かい字が小筆で前後に書き足されている。すべてをつなげて読むと、こうなる。 『こちら猫弁 猫さまのお悩みなんでも解決致します。にゃん』  走って来た百瀬は、ドアの前で息を整える。整えながら半紙の文字を読むが、驚く様子もなく、慣れた手付きで半紙をはがす。すると銀色のプレートが顔を出した。『百瀬法律事務所』と刻まれている。しぶく、クールなプレートだ。信頼を絵に描いたようなプレートが貼り付いているのに、ドアそのものは極めて残念な色をしている。たんぽぽのごとき黄色なのだ。黄土色の壁に黄色いドアは据わりが悪い。  色を選んだのは百瀬ではない。もとは灰色だった木製のドアが、三年前にまだらに剥げ、経費を惜しんだ秘書が、事務員に塗り直しを命じた。事務員は「塗装業は事務ではない」と文句を言いつつ、ホームセンターで半額セールのペンキを自慢げに購入して来た。  その色を見て、百瀬も秘書も絶句した。嫌がらせでその色を選んだのか、心底その色に満足しているのか事務員の心中は不明だ。  そして事務員は塗った。少しくらいむらがあっていいものを、徹底的に塗った。かなりじょうずに塗ったが、百瀬も秘書もそのドアにつき何も感想を述べなかった。  ひとこと愚痴《ぐち》をこぼせば、ナイアガラの滝のように不満がとめどなく溢れ出るとわかっていたからだ。  幸い三年の月日で黄色はくすんできた。見慣れたのもあって、今では百瀬も秘書もドアについて、そう気にしてはいない。ただし、次に塗り直す時は業者に依頼すると決め、予算もプールしてある。  いわくつきの黄色いドアを開けて、百瀬は中に入る。すると、室内にいる生命体の視線をいっせいに浴びることとなる。  八十平米の室内に、毛むくじゃらの四つ足があちこちにいて、それらがいっせいに百瀬を見た。ざっと七匹はいる。その四つ足は箱の中とか本棚の上を好む習性があるから、おそらく見えている数の一・五倍は存在しているはずだ。 「またイタズラですか?」  四つ足ではなく、二足歩行の生命体が言った。百瀬の手にある半紙を見ている。  野呂法男《のろのりお》、六十歳。こちらは毛むくじゃらではなく、少し毛が足りない風情の男で、重たい書類を突き出た腹に載せ、両腕で支えながら器用に運んでいる。 「四時に約束した依頼人は?」百瀬は応接室を気にしながら尋ねる。 「電話があって、明日の午後に変更になりました」  初めてこの事務所を訪れる人間は、十人が十人、野呂を弁護士だと思い、百瀬を秘書だと思う。  年齢に見合った脂肪を蓄《たくわ》え、足りない分の毛は髭《ひげ》で補い、毛は白と黒が半々で、教養ある紳士という見た目を作り出している。法律事務所の事務方として、あちこちを渡り歩いてきたベテランである。この事務所に落ち着いて五年。事務方としては業界屈指の手腕を持ち(自称)、今もあちこちから引き抜きの話が来る(これまた自称)が、移籍せず腰を落ち着けている。  二十も年下の息子のようなボスは、天才とぼんくらが同居しているようなつかみどころのなさがあり、そのぼんくらの部分を埋めるのに、自分が必要な存在であると感じられ、それが野呂のモチベーションとなっている。 「事務所の看板にイタズラをする、っていうのは器物損壊罪《きぶつそんかいざい》でしょう?」  野呂はボスと法律知識をゲームのように競うのが趣味だ。  実際、弁護士の仕事は事実などどうでもよくて、あらゆる解釈から都合の良いものを選び出し、それを武器に、相手の解釈を論破するゲームのようなもので、「事実はない。あるのは解釈だけだ」とニーチェは言ったが、まさにその通りだと野呂は思う。  ところが百瀬は今までのボスとは違い、あらゆる解釈を想定した上で、負けを選んだりする。でもなぜか依頼人が笑顔で、百瀬も笑顔だったりするから、帳簿《ちょうぼ》は火の車だとしても、なんとなく成功したような感覚がある。  たぶん錯覚なのだが、このあたりがどうも、つかみどころのない職場なのだ。「悪質な場合はそうですが、通常は軽犯罪法違反です」  百瀬はまともに返答する。 「どちらにしろ落書きは立派な犯罪です」野呂はもう少しゲームを続けたい。  百瀬はゲームを終わらせ職務に就きたい。 「そもそもこれは落書きでしょうか? 半紙は持ち主のものです。自分の紙に何を書こうと自由です。第一これは学童用の墨色良好《すみいろりょうこう》な半紙です。小学生のイタズラでしょう」  そう言いながら百瀬は半紙を広げてみせた。 「小学生にしては達筆ですな」 「では中学生でしょう」  百瀬は半紙を丸めてゴミ箱へ捨てた。するとゴミ箱の横でしゃがんでいた仁科七重《にしなななえ》が百瀬を睨む。  七重は痩せており、髪を短く刈り上げている。年齢は百瀬より上で、野呂より下なのは見た目に明らかだ。  野呂は書類を机に置き、百瀬に言った。 「で、どうでした?」 「どうって?」 「ほら、昼休みを利用して歯医者に寄るって。治療中だから電話をかけちゃまずいかなと思ったんですけど、さっきの案件、急ぎだったものですみません」  そう言われて、百瀬は見合いの最中にかかってきた電話を思い出した。歯医者と嘘をついて、新宿の老舗《しにせ》ホテルのティールームで女と会っていた。  見合いをし始めた頃は、「今から見合いなんです」と正直に言っていた。しかしこうも何度も見合いを重ねると、つまり、こうも失敗が続くと、「だめでした」と言うのも面倒で、その時の野呂と七重の「なんて言ってあげようか」という表情を見るのも面倒で、もう「結婚が決まりました」となるまでは言わない事にしたのだ。 「歯石《しせき》とっただけですから、かまいませんよ」百瀬は嘘に嘘を重ねてみる。  すると七重がすっくと立ち上がり。叫ぶ。 「わたくしは奥歯の痛みをバッファルンでしのいでいます!」  七重はスコップを握っている。猫用トイレの掃除中なのだ。  カタカナ言葉に弱く、単語を間違って覚えてしまう七重は、マヨネーズをマネヨーズと言ったりする。間違いはかすかなので正されることはない。  スコップを握りしめたまま、七重は仁王立ちしている。文句を言う用意が整った、さあ今から言うぞ! そんな決意がうかがえる。 「そりゃあわたくしは先生のように司法試験に受かっちゃいないし、野呂さんのように秘書検定も通っちゃいません。でも商業高校は三年で見事卒業、簿記《ぼき》三級の免状も持ってます!」  百瀬は三年も三級も叫ぶほどのことかしらと思ったが、とにかく女の言い分は最後まで聞かないといけないのだ。そのことは何度も野呂から言い聞かされている。人生経験を積んでいる野呂の教えは傾聴に値すると思うものだ。 「わたくしはここに事務として入ったんです!」  七重は叫び、百瀬の頭は自然と頷く。 「なのにわたくしは毎日こうして猫の世話に明け暮れ、事務の仕事は秘書の野呂さんにとられ、弁護士先生は呑気《のんき》に歯の掃除などしくさって」 「なさって、でしょう? 敬語は正しく」  野呂は掟《おきて》をやぶって口を出した。すると七重は戦意喪失したのか、おとなしく掃除を再開した。  百瀬はほっとしてソファに座り、事務所内を見回す。視界に存在する七匹の猫とみっつの猫用トイレを除けば、小さめながらもごく普通の法律事務所である。  六十歳のベテラン秘書と推定五十歳の女事務員がいて、キャリア十五年の自分がいる。曲がりなりにもこうして事務所を構えており、仕事は次々と舞い込んで来る。自分はなかなかにちゃんとしているではないか。  廃校になった小学校から貰い受けた木製の机は、代々校長が使っていたらしく、年季が入っている。収納力は抜群で、頑丈《がんじょう》ではあるし、弁護士のデスクとして、使い勝手になんら問題は無い。その横に突っ立っている白木のハンガーラックには、出がけに着替えた上着がかかっており、襟には弁護士バッジが持ち主をあざ笑うように光っている。あれを着て行けば、見合いは成功したのだろうか。  百瀬はバッジを初めて身に付けた日を思い出す。「正義の味方になるぞ」と子どものように心に誓ったものだ。  そこは銀座の高層ビルワンフロアを専有する日本屈指の大手弁護士事務所だ。期待の新人としてスタートした弁護士人生。目の前の仕事に懸命に取り組む日々。まさか十年後、独立するとは思わなかった。  独立して五年。大黒柱という立場は自分に不似合いな気がする。  七重は仕事に納得がいかないのだろう。雇用人を幸せにできないで、正義の味方と言えるだろうか。なにかこう、ぱっとしたことをして、周囲を喜ばせたいと思ったりもする。 「今回の依頼は企業買収がらみの相談でしょうか?」  百瀬はすがるような目で野呂に聞く。 「企業買収ではありません」  すると七重が「離婚訴訟?」と口を出す。 「違います」野呂はこれまたきっぱりと否定する。 「依頼人はペット禁止のマンションにお住まいということで」  やはりペットか。  百瀬は過去に引き受けた依頼から推測してみる。 「依頼人はそこでペットを飼いたいわけですね。つまり、マンションの規約を変えたいという要望でしょう」 「いえ、依頼人は既にチンチラゴールデンを飼っています」  すると七重が叫ぶ。 「まただ! 依頼人はチンチラゴールインを持て余した挙げ句、うちで引き取れ、って言いたいんですよ!」  百瀬は立ち上がる。七重をなだめなければ。腹いせに黄色いペンキを上塗りされてはたまらない。 「ここは法律事務所ですよ。猫の里親施設じゃありません。引き取れなんて依頼は今まであったためしがありません」  七重はスコップを握りしめて言い返す。 「じゃあ、この子らはなんなんです! 飼い主と家主のトラブル、動物病院のトラブル、ありとあらゆる訴訟の果て、放り出された猫たちを結局うちが引き取るものだから、世間じゃ先生の事、猫弁って笑ってるんですよ! 困ったら、あそこへ持って行け、って。わたしは毎朝出勤するとき、あのドアの前に段ボール箱が置かれてないか、ひやひやしているんです」  百瀬は何も言わない。七重の気がすむように、との配慮だが、何も言わない男ほど女をいらいらさせるものはない。七重の声はさらに甲高くなる。 「今うちに何匹いると思ってるんですか?」 「ひいふうみい、七匹」野呂が数えてみせる。 「十匹です!」七重が言い返す。  百瀬は申し訳なさそうに修正する。 「十一匹ですよ。先週一匹増えましたから」  七重はふと真顔になり、百瀬を見る。重そうな丸めがねの奥に、おびえたような澄んだ瞳が見える。  七重は思う。三人の息子のうち、上ふたりは成人して巣立っていった。三番目は小学五年生のまま、大きくならない。仏壇の中で窮屈そうに、毎朝こちらを見つめている。まさか十一で死ぬとは思わないから、叱られたあとの、ばつの悪い顔をした写真しか用意できなかった。その遺影の瞳と、この三十九歳の不器用な弁護士の瞳が似ていることに気付いたのはいつだったろう。  七重の心中を知らない百瀬は、無言を怒りと受け取った。 「まこと先生に相談して、里親を探してもらっていますから」  まこと先生というのは、この事務所に定期的に往診に来る獣医だ。 「まあ、しかたのないことですよ」七重はあきらめたように言って、ふと下を見る。そして百瀬の足元の奇妙さに気付く。 「先生! 靴が片方違ってます!」  言われて、百瀬は自分の足元を見る。靴を履き違えたように見えるのもしかたない。まるで新品と中古品のような落差だ。  百瀬はガード下の老婆を思い出す。ああしてプロに靴を磨いてもらうのは初めてだが、ここまで綺麗になるとは驚きだ。老婆は百瀬のことを「バランスが悪い」と言ったが、結局は老婆が百瀬の足元をバランス悪くしてしまったのだ。 「そう言えば先生、大福《だいふく》様からお電話があって、今日中にお寄りくださいとのことです」  野呂は思い出したように言う。  百瀬はわかったというように、軽く頷き、校長先生のデスクに座った。そして山のような書類に目を通し始める。足元に白黒の牛柄の太った猫が寄って来て、百瀬の右足の靴の匂いを嗅ぎ、うさんくさそうな顔をする。やがて左足の、汚れた方の靴を舐め始める。プロの靴磨きと腕を競うように、ざりざりざりと熱心だ。  七重は野呂にささやく。 「大福ってひと、しょっちゅう電話がありますけど、依頼人リストに名前ありませんよね」  野呂は頷く。「先生も営業に回ってるんじゃないですか? 七重さん、あなたのために、ペット以外の仕事をとろうと思っているのでは?」とあてこすりを言ってみる。  七重は腕組みをする。 「いやー、ペットホテルのオーナーかも。まあ、おっきな着手金がどさんと入るなら、ペット関係でも結構ですけどね」    第二章 シンデレラの黒い靴  東園寺の葬儀場の控え室で、大河内進は喪服のままパイプ椅子に座り、煙草《たばこ》を吸っている。上着のボタンはすべてはずし、黒いネクタイをゆるめ、それは突き出た腹の上に聴診器のようにぶらさがっている。  室内に灰皿は無い。ちょっと吸っては床に捨て、革靴でぐいぐいと床に押し付ける。長い煙草の残骸《ざんがい》がコンクリートの床に散らばっている。  桜井は離れた場所に立ち、大河内の様子をいぶかしげに見つめる。「ここは禁煙ですよ」  すると大河内は銀ぶちめがねの奥の目を細める。 「あんた、時代錯誤の職人のくせに、今風に禁煙だって?」  大河内は新たに煙草二本に火をつけ、一本をくわえ、一本を差し出す。 「吸え」 「結構です」 「吸ったら仕事を回してもいい」  桜井は黙り込む。 「一本につき十足、回そう」  桜井はゆっくりと近づき、火のついた煙草を受け取った。  大河内は口の端をゆがめて、いかにも軽蔑《けいべつ》している、というふうに、それが相手に伝わるように笑った。  桜井は煙草を右手で持ったまま、左手の人差し指と親指をなめた。その指先で、ぽんぽんと煙草の火を押さえて消し、ハンカチを取り出すと、煙草を包んでポケットにしまった。  大河内はカッとして罵倒《ばとう》しようとした。  その瞬間、ドアが開き、秘書が入って来た。 「寺が契約している運転手とは全員連絡がとれました。すべてシロです。火葬場にも問い合わせましたが、会長の柩は到着していません」  桜井は「そんなばかな」と落胆の声を発したが、大河内は複雑な表情だ。「会長の柩が到着していない」という連絡に、どこかほっとしているようでもある。 「いったい誰が何の目的でこんなことを」  大河内は座ったままいらいらと左足をゆすった。短い太ももがせわしなく上下する。貧乏揺すりは大河内の直らぬ癖のひとつだ。  秘書は目をそむけて言った。 「奥様のいたずらではありませんか? やはり参列してもらうべきだったんですよ」 「あいつが参列してたら今頃どうだ? ぎゃあぎゃあ騒いで一一○番してるぞ」 「ですから奥様が参列したらこんなことにはならなかったと申し上げているんですわ」 「あいつじゃないよ!」  大河内は立ち上がった。 「あいつはわがままな女だが、正直だ。やるときは宣戦布告する。言っておくが、参列するよう俺はあいつに言ったんだ。あいつも来る気でいた。でも、来られなくなったんだ」 「理由はなんです?」  そう言われて、大河内は黙った。いきなり今朝「行けなくなった」と電話が来たのだ。理由は知らない。別居して五年、意思疎通など皆無に近い。 「猫が下痢《げり》でもしたんだろ」そう言ったとき、再びドアが開き、寺の葬儀担当スタッフが駆け込んで来た。 「大河内様、電話です! 寺の代表電話にかかってきて、喪主と話をしたいと」 「誰からだ?」 「犯人からです! はやく、はやく出てください!」  寺の事務所で、大河内は電話に出た。  寺のスタッフはじっとその様子を見つめている。桜井も秘書も同様だ。  大河内は「うむ、うむ」と返事をして時折ぼそぼそと何かささやき、最後に「指一本触れるなよ」と脅すように言うと、携帯番号を伝えた。そして電話を切った。わずか二分のことだ。  大河内はスタッフに言った。 「やはり霊柩車ジャックです。犯人の目的は金です。しかしそれは寺への要求ではなく、喪主であるわたしへの要求で、母の遺体との交換条件です」  スタッフは何か言おうとしたが、大河内は手で制した。 「母を取り戻すために、わたしは全力を尽くします。だいじょうぶです。母の柩と共に、霊柩車も戻るので、ご安心ください。どうかこのことはすべてわたしに任せて、くれぐれもマスコミや警察に漏れないよう、お願い致します」  スタッフは頷いた。 「参列者は気付いていません。このまま、葬儀は滞り無く行われたということで、よろしく」  そう言って大河内は頭を下げた。      ○  それは新宿駅から十分ほど南に歩いたオフィスビルの七階にある。  平日午後八時。賑《にぎ》やかな駅周辺と違い、ここは別世界のように静かだ。  百瀬はこのフロアに立つと、必ずあたりを窺《うかが》う。知り合いに会いたくないからだ。  ドアは常に開いている。開放的なオフィスだ。閉めておけないものかと思うが、自分のオフィスではないから勝手はできない。これもまたいつものことだが、一歩入ると、蛍光灯がまぶしすぎる。「未来への光」を演出しているのだろう。  事実、百瀬は初めてここを訪れたとき、このまぶしさに希望を見る思いがした。今思えば、まぶしさに目がくらんだのだ。  受付で会員証を見せると、「七番のお部屋へどうぞ」と言われる。  長い廊下を通って七番目の部屋にたどりつく前に、いきなり六番目の部屋のドアが開き、中から出て来た男とぶつかりそうになった。男の頭髪は真っ白で、肌の色も白く、白いあごひげを逆三角形に切りそろえており、白いスーツを着ている。こういうところでは互いに目をそらし、挨拶をしないのが礼儀にかなっていると百瀬は思うが、白髪の男は「失礼した!」と叫んだ。  百瀬はとっさに「こちらこそ」と返答したが、部屋の中から「ではまた来週このお時間に」と、女性の澄んだ声が聞こえた。白髪の男は澄んだ声の主に「失礼した」と言ったに違いない。ああ、無粋なことをした。  白髪の男は鋭い眼光で百瀬を見た。さらに百瀬の足元を見て、「そんなバカな」というふうに大げさに肩をすくめて、行ってしまった。  百瀬は足元を見る。靴がおかしい。あいかわらず新品と中古品を履いているように見える。モーの舌の敗北だ。  モーというのは牛柄の猫の名前である。正式にはモーツァルトという名前で、大きな邸宅に住んでいた。雑種とはいえ元はお嬢様である。元お嬢様がざらざらの舌で必死に舐めてくれたのに、老婆のシャンプー技には追いつかなかった。 「百瀬さん!」  ドスのきいた声にはっとすると、七番目のドアが開いており、中から女性の手首が覗いている。約二十度開いたドアからは手首のほか顔半分が見え、片目がこちらを睨んでいる。 「どうしました?」  つくづく、力強い声だ。  六番目の部屋の女性の声がいかに澄んでいたか、百瀬は痛感する。鈴のような声だった。どうして白髪のじいさんの担当が澄んだ声で、自分の担当はドスがきいた声なのだ。  白い四角い部屋である。テーブルにはパソコンが一台置いてある。  ドスのきいた声の持ち主は、白いブラウスに薄いピンク色のベストとスカートを身につけている。それが制服なのだ。おとなりの、声が澄んだ女性も同じ制服のはずだ。  女はキーボードに両手を乗せている。ベストの左胸のネームプレートには大福と書いてある。声の割には色白の、ほんわかした顔をしている。眉は太く、一文字だ。髪は短い。男の子のようだ。  百瀬は大福と書かれたネームプレートを見ながら、三年前を思い出す。勇気を出してこの会社を訪れ、未来の光を求めて痛い入会金を支払い、あてがわれた担当者の名前が大福だと知った時、「これはいける」と思ったものだ。大きな福を手に入れたような予感がした。  しかしあれから三年経っても、ここを卒業できないでいる。ここというのは結婚相談所である。ナイス結婚相談所という野暮《やぼ》ったい名前だが、実績は高く、歴史ある会社だ。それだけに入会金は高い。  しかしこの会社、百瀬につき実績は皆無である。三年だめだと、永久にだめな気もしてくる。三十年後もここでこうして大福|亜子《あこ》と向き合っている自分が、まんざら悪夢ではなく、正夢のような気さえしてくる。  相手が何も言い出さないので、しかたなく百瀬から切り出した。 「まただめですか」 「なぜそう思うんですか?」  亜子の視線はまっすぐに百瀬を突き刺す。  ガード下の老婆を思い出す。今日はよく質問されると感じながらも、「なぜだめだと思うんだろう」と素直に自分に問うてみる。理由は明白だ。 「今日で三十人目なんです。二十九人から続けざまにノーと言われたので、なんだかもう、そういう答えしかないような気がして」 「お客様ご自身がそういうお気持ちになっては困ります。だめだろう、だめに決まってるという態度で臨めば、お相手に伝わります」 「やはり断られましたか?」 「ええ、ノーという連絡がお昼過ぎに入ってます」  お昼過ぎ? そんなばかな。待ち合わせはKホテルのロビーで、一時半。会って、その階にあるティールームでお茶を頼み、それから少し会話をした。 「その連絡は何時頃にありました?」 「携帯からのメールで一時四十七分に」  亜子はパソコン画面から視線を移し、百瀬を見た。百瀬の視線は斜め下に向かっており、もちろんそこには床しかないし、あきらかに気を落としている風であった。 「会った時のこと。思い出せますか?」 「ええ、それはもう、今日のことですから」 「では、ここでそのときのこと、順に思い出してください。何が彼女をノーと言わせたか、わたしがプロのアドバイザーとして分析してみます」  百瀬は亜子を見た。まかせておけ、という頼もしさをもった母なる表情をしている。  この表情に三十回賭けて、三十回がっかりしたけれども、それはこの結婚相談所のシステムのまずさではなくて、百瀬の人間性のせいであると、今、遠回しに言われたような気がする。  たぶん。彼女の言う通り、おのれのせいであるに違いない。このあたりで自分の対応のまずさを分析してもらったほうがいい。  百瀬はゆっくりと話し始めた。  一時半の約束に、わたしは五分余裕を持って行きました。木下育美《きのしたいくみ》さんは七分遅れて来ました。つまりわたしは十二分、立っていたわけですけど、その間は背筋をまっすぐにして、だらしない姿勢はとらないよう、心かけていました。  木下さんは花柄のワンピースを着ていて、赤いボレロをはおっていました。エナメルの赤い靴が窮屈そうだったのを覚えています。待ち合わせはホテルのロビーでしたが、すぐにわかるように、そう、これは大福さんのアドバイスに従って、最新号のゴルフマガジンを右手に持って、目印にしました。おかげさまで、木下さんがわたしを見つけてくれました。木下さんは笑顔で、口紅が赤くて、少し前歯に付いていました。  わたしと木下さんはティールームに入り、窓際の席に座りました。窓から庭園が見えました。庭園は一見するといかにも和風なんですけれども、シンメトリーに造られており、デザインとしては西洋庭園で、なのに植えてあるものはすべて和風で、でも、日本庭園の基本である不等辺三角形ではないのです。そこが狙いなのか、あるいは無思慮に造ったのかが気になりましたが、口には出しませんでした。過去に、そういうひとりよがりな発言で見合いが失敗したので、経験を活かしたのです。  彼女は紅茶を、わたしは暑かったのでアイスコーヒーを注文しました。木下さんはわたしに「ゴルフはどこのクラブでなさいますか」と尋ねました。二十九歳なのに、さすが教師ですね、敬語をなめらかに使います。わたしは「ゴルフはしません」と言いました。言ってしまってから「たしなみません」と言えばよかったかなと思いました。それから木下さんはわたしの襟をやたらと見ていました。あとでわかったのですが、バッジを確認したかったのだと思います。バッジをしていかなかったものですから、気になさったのでしょう。いえいえ、わざとではないんです。たまたま、していくのを忘れました。  それからわたしの携帯電話が鳴りました。木下さんが「どうぞ」と言ってくださったので、席を立って、少し離れた場所で電話に出ました。注文の飲み物はまだ来ていませんでした。電話は事務所の秘書からです。すぐにまあ、解決して切ったのですが、その間に木下さんはいなくなっていました。しばらくして紅茶とアイスコーヒーが来ました。電話をしたと言っても、それくらいの短い時間だったんです。わたしは木下さんが化粧室にでも行っていると思って、一時間待ったのですが、戻ってきませんでした。ひょっとしてふられたかと思いましたが、さらに三十分待ってみました。それからあきらめて帰りました。  そのあとのガード下のことは見合いと関係ないと考えて、百瀬は話を終えた。亜子は腑《ふ》に落《お》ちないという顔をしている。 「話、はしょってませんか?」 「ほんとうに、あったままを話しています」 「言いにくいことですが、ジッパーを開けっ放しだったということはないですか」 「それはもうすぐに確かめました。ちゃんと閉まっていました」 「お昼は何を食べましたか」 「餃子《ぎょうざ》は食べていません。昼飯はコンビニのおにぎりです。そのあと歯も磨きました。デンタルフロスも使いました。口臭もなかったはずです」 「携帯電話の着メロはなんですか?」 「電話ですよー、電話ですよー、と連呼する声です。声は秘書の声です。あ、ちなみに秘書は男性です」  亜子はあきれたように黙った。が、結婚相手としてNGなほどの悪ではないと判断したのか、 「腑に落ちませんね」と言った。 「そうなんです。腑に落ちないんです。会話する以前に断られたんです。今までで最短記録です」  亜子は腕組みをした。百瀬は亜子に頼もしさを感じる。痛い入会金はこの頼もしさに払ったのだと思えば、妥当な値段だとも思えてくる。 「その事務所からの電話の内容、話せますか」 「ええ、守秘義務により固有名詞は避けますがよろしいですか? ある老人ホームでのいさかいなのですが、老人Aは雄《おす》猫を飼っている。老人Bは雌《めす》猫を飼っています。AとBがホームの都合により同室になることになりました。AとBは男性で、もちろん性は同一です。でも猫の性が問題なんです。雄と雌が一緒に暮らすと子猫が生まれてしまう。そのホームではペットは一人一匹までというルールがあるので、避妊《ひにん》手術をする必要があるわけです。しかし老人Aは雄猫の体にメスを入れたくない。老人Bも同じく雌猫にメスを入れたくない。そこで老人AとBが喧嘩《けんか》をして、とうとうAからうちの事務所にBを説得するよう、依頼があったんです」 「そんなことで弁護士を雇うんですか!」 「おふたりともかなりの資産家なんです。ホームも高級マンションでドクター付きです。痴呆《ちほう》予防に暫定的《ざんていてき》にルームメイト制度を取り入れることになり、同居が決まったんです。多少のストレスは脳に刺激となってよいらしいです。わたしは二度足を運び、互いの言い分を聞いている最中だったのですが、急に自分等で解決すると事務所に連絡が入ったのです。じゃんけんで決めると」 「問題ありますか?」 「大有りです。猫の年齢や健康状態を調べて、より負担の少ないほうにするべきなんです」 「はあ」 「年齢や健康状態が同じなら、雄猫にするべきなんです。去勢手術なら短時間で済むため麻酔の量も抑えられます。雌猫だとお腹を開くことになるんです。ええ、わかっています。猫の避妊手術は今はもう常識のように行われていますし、うちの事務所にいる猫も手術を受けています。多頭飼いの場合しかたありません。ですが手術は手術です。麻酔を使います。個体差のある生命に全身麻酔を使う場合、やはり万が一という危険を伴うのです。それをじゃんけんで決めるなんて」 「それだ」  亜子はにやりとした。 「正確に思い出してください。あなたその電話になんと返答しましたか?」  百瀬の脳は正確に自分の言葉を思い起こした。  たしか第一声は…… 「妊娠《にんしん》はまずい」  そして次に…… 「ぼくとしては避妊は避けたい」  百瀬は肩を落とした。  亜子はふふんと鼻で笑う。 「見合いの相手が、ホテルのロビーで『妊娠はまずい』『避妊は避けたい』と叫んだとしましょう」 「ええ、ひきますね。それにちょっとばかり、大声出してしまいました。今思いますと、周囲のお客さんもじろじろとわたしを見ていたような気がします」 「女性にだらしなく、とんでもない男だと思ったでしょうね。あなたの事務所が猫専門だということを木下さんはご存知ないので」 「猫専門ではありませんけど」  百瀬は消え入りそうな声で、でもそこだけははっきりさせておきたいのか、そう言って、うつむいた。  亜子はパソコン画面を見つめたまま黙り込んだ。次の手を考えているようだ。  百瀬は顔を上げて切り出した。 「弁護士をやめたいのですが」 「はあ?」亜子は大声を出した。防音設備がしっかりした部屋ではあるが、そうでなければフロアじゅうに響き渡る声だ。 「弁護士やめちゃうんですか?」 「いえあの、プロフィールの職業欄に弁護士と記載するのをやめたいのです」 「どうして? ここがあなたの最大のウリなんですよ! ここ以外にどこを売り込めばいいっていう……」言いかけて亜子は黙った。  百瀬はとつとつと話し続ける。 「今までご紹介いただいた女性は、わたしの肩書きにひかれて会ってくださったんだと思うんです。結果三十連敗です。そろそろ……」 「そろそろ?」 「裸の自分を受け入れてくれる人を」  亜子は真っ赤になった。頬がぷうっとふくらみ、これ以上ふくらまないほどふくらんで、とうとう、ぷーっと吹き出した。  結果、百瀬は亜子のつばきを顔いっぱいに浴びることとなった。 「すみません、ちょっと、百瀬さんのハダカ想像しちゃって」  亜子はあわててパソコンに目を移す。そこには百瀬のプロフィールの顔写真があった。ピン、ときた。 「この丸めがね消しちゃいましょうよ」  言いながら、パソコンソフトのツールでめがねを消してゆく。するとださいルックスが思いのほかすっきりとした顔になってゆく。いい感じだ。見よりによってはなかなかの、いい男かもしれない。 「ほらほら」亜子は百瀬を見る。百瀬はめがねをはずしてハンカチで懸命にレンズを拭いている。つばきをぬぐっているのだ。  亜子はじっと百瀬を見る。百瀬は視線を感じて亜子を見る。が、近眼なのでよく見えない。 「ほらほらって?」目を細め、百瀬は尋ねる。 「なんでもないです」亜子は言い、画面の写真を元に戻す。  百瀬がめがねをかけた時、亜子はすでに冷たい表情でモニターを見つめていた。 「こんどこそぴったりの女性を紹介しますから、見つかったらお電話しますので」  亜子はドスドスと人のみぞおちをこぶしでなぐるような話し方をして、面談を終わらせてしまった。  百瀬はためいきをつき、七番の部屋を出る。六番の部屋を通り過ぎるとき、この部屋のアドバイザーの顔はどんなだろうと思った。が、せんないことだ。  長い廊下を片方新品ぽい靴でひたひたと帰ってゆくしかなかった。      ○  百瀬法律事務所の応接室に防音設備は無い。  一応ドアは閉まるし、壁は天井まであるので、依頼人は声が外へ漏れると思っていない。が、実際は外へ漏れている。外と言っても事務所内であるが、七重はこの設備不良をいたく気に入っている。  法律事務所勤務。それは七重の虚栄心を満たすものである。長年専業主婦をしてきて、資格と言えば簿記三級しかない七重が、三年前の面接で、百瀬に「明日から来られますか」と言われた時は、ぱーんとのぼせあがった。天井を突き抜けて大気圏を突き抜けて宇宙に行ってしまうくらいの、爆発的な喜びを感じた。  七重はそれまでの人生で、爆発的悲しみは経験したことがあるが、爆発的喜びはなかった。その日は百瀬を「神様」と思ったものだ。しかし勤務して一週間でわかった。なぜこの事務所に七重の席があったのか。みな一ヵ月でやめていくのだ。  七重が入った時に五匹いた猫が、今では十一匹である。百瀬の性格からすると、これからも増えるに違いない。結局事務員は猫の世話に追われる。あけても暮れても猫のエサとシモの世話だ。抜け毛も大量に落ちるので、掃除機は一日二回、さらにコロコロと呼ばれるローラー式粘着ペーパーでソファや服に付いた毛を取らねばならない。法律事務所の正規雇用という募集広告を見てやってくる人間は、がっかりするのに一日あれば充分で、すぐにこの事務所に見切りをつける。  七重がここをやめないのは、腐っても法律事務所の職員であるという虚栄心、さらに、耳をすますと応接室の声が聞こえてくるというのも大きい。 「そんなところに立っているものじゃありませんよ」  野呂は応接室の壁際でぴーんと立っている七重に注意する。七重はちらっと野呂を見るが、返事はしない。中にいる依頼人に聞こえてしまうからだ。 「こちらに来て入力作業を手伝ってください」  野呂はそろそろ七重に帳簿の仕事を覚えてもらいたい。しかし七重は全くその気がないように見える。時々ヒステリックに「猫の世話以外のことをやらせてください」と叫ぶが、実際教えようとすると、ひらりふわりと逃げてしまう。  野呂は三年前を思い出す。七重の履歴書を見て、あまりに分不相応な応募だとあきれたものの、簿記三級という記載に一縷《いちる》の望みを抱いた。この事務所にいる限り、猫の世話は必須条件だし、「猫の世話を嬉々としてやる事務のスペシャリスト」という人材は「おそらく国内には皆無」と悟り始めていた。一ヵ月置きに採用しては逃げられるという状況を経て、もうこうなったら即戦力でなくていい。片腕は無理としても、人差し指くらいには役に立って欲しいと、ハードルをかなり低いところに置き、採用を決定した。ボスの百瀬は、人事に関してなんら哲学はないようで、はっきり言ってこの募集は野呂の意向で行ったのだ。  だから、たとえ仕事覚えが悪く、パソコンは電磁波が怖いなどと言って触れようともせず、大切なドアを黄色に塗ってしまっても、文句は言えない。それに、七重は知りたがりだが、口は堅く、たとえ家族にも、依頼人の秘密は漏らさないという、ある意味、法律事務所にぴったりな人材でもあるのだ。  七重は「守秘義務って言葉が好きなんです」と野呂に打ち明けたことがある。「人に言わないというだけで、位が上がったような、得した気分です。ですからわたしはね、旦那がわたしの首をしめて教えろと言ったって、なにひとつ、職場での話は致しません」そう言って得意そうに胸をそらせた。  その時の七重は、まるで小学一年生のようにまっさらで、うそのない目をしていた。そこで野呂は、三年契約だった七重の契約更新をつい先日。決意したのだ。  口外しないのだから、盗み聞きには目をつぶろう、帳簿もあと一年は自分でやろうと、野呂はため息まじりにパソコンに向かう。  黒猫が左手の甲をぺろりと舐める。野呂をなぐさめているようだ。常に野呂のデスクの上でごろんと寝ている太った猫で、そこにいなければ、デスクの下にいる。野呂デスク守衛という職務ならば、二十四時間労働のハードワークで、労働基準法違反に違いない。名前はあるにはあるが、野呂は口にしたことがない。  そもそも野呂という男は猫を撫《な》でたりしない。抱くなどもってのほかで、なるべく接触を避けている。猫が苦手なのだ。  皮肉なことに、猫という生き物は、人に触られるのを嫌うタイプもいて、そんな猫たちに、野呂は慕われている。  本日の依頼人は前日キャンセルの電話があったチンチラゴールデンの飼い主である。  百瀬は応接室で依頼人と向き合っている。  百瀬よりやや年上に見えるその女は、バラの強い香りがする。香水を着ている[#「着ている」に傍点]のだ。膝の上に毛並みの見事なチンチラゴールデンを抱いている。  しかしこのチンチラゴールデンという種類の猫の姿は、百瀬にはどうもしっくりこない。いつ見ても、「とても嫌なことがあったんです」という顔をしている。このような不機嫌顔の猫が市場で高価格で売買されているのを、猫界の七不思議と百瀬は思うものだ。  目の前にいるチンチラゴールデンは特に、そう、際立って、不機嫌に見えた。「とても嫌なことがありすぎて、人にも分けてあげたいです」と、不幸を越えた先の意地悪顔をしており、そのくせ女主人とお揃いのエルメスのスカーフを首に巻いている。  せっかくのエルメスだが、目の前にいる丸めがねの男にはそれがどれだけ価値のあるものかわからない。男にわかるのは、こうやって猫と揃いのものを身につけている依頼人は、たいてい自己中心的で、手強い。ということだ。  百瀬は女の顔に見覚えがあった。どこで会ったのかしばらく考えていたが、思い出した。子どもの頃にテレビで観たイタリア映画『ひまわり』。主演のソフィア・ローレンにその女は似ている。鼻と頬骨が高く、目はぎょろりとしている。口はへの宇で、それを強調するかのようにワイン色の口紅を塗っている。似ているが別人に違いない。 「ペット禁止のマンションにお住まいなのですね」  百瀬は本題に入る。  ソフィア・ローレンは、ツンと上を向いた。頷くとき、人はたいてい下を向くが、この女は上を向くのが肯定の合図のようだ。間違っても人に頭を下げない、そんなタイプなのだ、きっと。女は不機嫌な猫の頭をなでた。 「シルビーヌ・アイザッハ・シュシュちゃんがうちにきて三年。管理人からなんども注意され、住人からの嫌がらせもずいぶん受けてきました」 「どんな嫌がらせですか」 「嫌がらせの気分、ていうのかしら。視線、っていうのかしら。そういう視線を一方的に浴びせられました。わたしが感じたのですから、それは事実です」 「それで、引っ越すように言われましたか? それとも、そのジルベール」 「シルビーヌ・アイザッハ・シュシュちゃん」 「そう、そのシュシュちゃんを手放すように言われたのですか?」  女はそこなんです、と言いながら、再びツンと上を向いた。 「最近になって管理会社が規約を変えると言い出して」 「どう変えると?」  百瀬がぐっと身を乗り出すと、チンチラゴールデンはびくっと後ずさる。  動いた! 百瀬はほっとした。ここに来てから微動だにせず、七重がお茶を運んで来ても見向きもせず、ドアの開け閉めの音にも反応しないので、ひょっとしたら、ひょっとしたらだが、精巧に作られたぬいぐるみかと疑ったのだ。  後ずさると言っても、ほんの、そう、二センチかそこらだが、前足をぐっと突っ張り、ご主人のみぞおちにお尻を押し付けた。生きている。顔は百瀬を睨んだままで、相変わらず不機嫌そうだが、確かに生き物であり、そのご主人も、ぬいぐるみの件で管理会社と戦おうとする愚者ではない。そうわかってほっとして、改めて聞き直した。 「管理会社は規約をどう変えると言っているのです?」 「ペットを解禁にするんですって!」  百瀬は力が抜けた。 「よかったじゃないですか」 「よくないわよっ」  女は怒りで声をうわずらせ。こぶしでガツンとテーブルを叩いた。  こんどは百瀬がびくっとした。抜けた力が戻り、きゅっとお尻の筋肉が縮こまった。  チンチラゴールデンは微動だにしない。女主人のヒステリーは日常のようだ。 「解禁なんかにしてごらんなさい。氏素性《うじすじょう》のわからぬ犬やら猫やらが、うようよするんですのよ! ぞっとするじゃありませんか!」  そう言い放つと、女はシャネルのバッグから厚いファイルを出し、テーブルにどすんと置いた。ごてごてとネイルアートされた指を器用に使ってファイルを開き、ある項目を指差す。 「ほらここ! ペット不可って書いてあるでしょう? 小学生でも読めますよ。この契約のもとマンションを買ったんです。買ったあとで規約を変えるのは契約不履行というものです」  百瀬は心底驚き、言葉を失った。女のこめかみに浮き出た静脈はぴくぴくと波打ち、世の不条理に真剣に腹を立てているようである。腹を立てることに、自信を持っている。 「でもそのシル、シルシル、シュシュは、えっと」  記憶力には自信がある。こんなにも猫の名前が覚えられないのは、覚えるものかという意識がどこかに働いているのかもしれない。いや、そうじゃない。百瀬は自分の足元を見た。靴だ。右と左のバランスが悪い。そのせいだ。今朝あのガード下に行ってみたが、老婆はおらず、磨いてもらえなかった。  女はシャネルのバッグから札束を出し、どん、とテーブルに載せた。 「着手金よ」  百瀬はごくりとつばを飲み込む。 「ペット禁止条項の厳守を住人に徹底させる! そういうクリーンな環境でこの子を育てたいんです!」  女がタンカを切った途端、シャー! と、女の後頭部の上のほう、天井近辺からすさまじい声が聞こえた。  女は驚いて立ち上がり、振り返った。すると応接室の隅にあるスチール製の本棚の上から、黄色い小鬼が女を見下ろし、牙を剥いている。  女の顔はみるみる真っ赤になった。 「なんですの? ここはっ! あっちにもこっちにもうようよと!」  赤鬼は黄色い小鬼を見上げ、脅すようにこぶしを振り上げた。小鬼も負けずに「シャー」と女を威嚇《いかく》する。 「すみません、その茶トラ、集団生活に馴染めなくて、応接室を出られないんです」  百瀬は女を落ち着かせようと立ち上がった。すると、女がチンチラを抱いてないことに気付く。女もそれに気付き、「シュシュ、シュシュ」とおろおろと部屋じゅうを見回した。  案ずることはない。百瀬法律事務所の応接室は猫を見失うほどに広くはない。  不機嫌なチンチラはいた。本棚の下にある猫トイレで今まさに用を足そうとするところだ。小鬼の威嚇など意に介さず、トイレを借用しようとしている。 「いけません!」  女は脳天から突き上げるような声で叫ぶと、チンチラを抱き上げた。まるで黴菌《ばいきん》を払うように、チンチラの毛に付いた猫砂を払い、百瀬を睨みつけた。 「こういうことが、嫌ですの!」  百瀬は素直に頷いた。 「領収書は結構! さっさと解決して! 早ければ報酬金を上乗せします!」  女の名は野口美里《のぐちみさと》。猫に比べてやけにあっさりとした名だと百瀬は思った。  ドアのむこうで七重はにんまりと笑い、野呂に向かって手を振ると、親指と人差し指で丸を作った。着手金が入った、という合図である。  野呂もにんまりとする。七重のご機嫌な表情から、猫が一匹増える心配もないようで、二重にほっとする野呂であった。      ○  デパートの靴売り場で七重は熱心に靴を選んでいる。  選んでいるのは男性用の革靴である。指で押したり、ときおりくんくんと匂いまで確かめながら、一足一足舐めるように見る。それは白桃を選ぶしぐさに似ている。白桃は果物屋が嫌な顔をするが、デパートの店員は靴を指で押しても匂いを嗅いでもひたすらにこにこと対応してくれる。 「ご主人様には茶系もお似合いかと思いますか」  七重は店員の勘違いに気を良くする。十も年下の百瀬がつれあいに見えたとしたら、まんざらではない。毎朝洗面所の鏡に映るしみとしわは、あんがい人見知りで、内弁慶なのかもしれない。  店員は靴売り場歴二十五年のベテランである。今まさに低めのソファに座り、靴の試着を繰り返してぐったりしている丸めがねの男と、靴を選んでいる中年女の関係は、職場の同僚であると、ひとめで見抜いている。年上の女性社員が、不慣れな後輩男性をかわいがり、あれこれと面倒みているのだとわかった上での「ご主人様」である。 「これも履いてごらんなさい」  七重は茶色の靴を百瀬の足元に置く。  助けてくれ。百瀬は心の中で叫ぶ。靴を買うと言った途端、手伝いますとついてきた七重だが、こんなに熱心に選ぶとは思わなかった。  百瀬が茶色の靴を試着している間に、店員はそれとなく別の棚へと七重を誘導する。 「あら? この靴は」  七重はシンプルなデザインの黒い革靴を手に取った。  店員の目はきらりと光る。 「まあ、奥様。それはちょっと」 「この靴、だめなんですか?」 「いいえその、お高いものですから」  七重はさりげなく値札を見た。夫の靴なら軽く十足は買える値段だ。 「値段はかまわないんですの。ほほ、良いものが一番ですわ」  七重は靴を棚に戻さない。値段はかまわないのだ。七重が払うわけではないのだから。  店員の思惑通り、七重は百瀬の足元に黒い靴を置く。  百瀬は試着した茶色の靴を脱ごうとしない。 「これに決めました」 「あらだめよ。そんな色」  ついさっき、その色を勧めたのは自分だという事など、七重の頭にはない。 「これを履いてごらんなさい。依頼人はあなたの足元を見ます。安物では信頼されません」  七重はそれとなく「主人」の職業をアピールする。もちろん店員は「あうん」の呼吸でそれに応える。聞いて欲しそうなことをちゃんと聞いてあげるのが営業トークの鉄則だ。 「どのようなお仕事ですか?」 「弁護士です」  言いながら七重の胸はほこらしさでいっぱいになる。  店員は「まあ!」と驚きの声をあげる。営業用「まあ」ではなく、本当にびっくりしたのだ。  男はどう見ても弁護士に見えない。スーツは安物だし、めがねもださい。そしてこの刈り上げ頭の女だ。餃子のようなギャザーが入ったドタ靴を履くこの女が弁護士の片腕? 解せない。  店員は男がソファに置いた上着をさりげなく見る。バッジがある。刑事ドラマに出て来る弁護士がたしかこういうバッジをしていた。店員のモチベーションがぐっと上がる。実はこの最高級の靴は本命の直前に見せる靴で、このあと少し値段を抑えた靴を見せる段取りだったが、この靴でいけるかもしれない。  百瀬はいやいや靴を履いてみる。すると妙に心地よい。このまま履いて帰りたくなるようなフィット感がある。  店員は商品説明を始める。 「この靴はシンデレラシューズという国産ブランド品です」 「シャンデリア?」 「シンデレラです。王子様が迎えに来てくれて幸せになるあのシンデレラ」  店員の説明に、七重はうっとりとする。女の子は誰もが一度は憧れるシンデレラストーリー。猫砂にまみれて日々働かされる自分にも、そんな夢のような話が舞い込まないだろうか。七重は珍しくカタカナ言葉を訂正して覚えることができた。 「さっきの靴もシンデレラシューズでしたよね」  店員はしゃがみこみ、百瀬が履いている黒い靴をそっと脱がし、内側を指差す。 「ここのところに小さくサクライと焼き印が入っています。シンデレラシューズの中でも最高級のシリーズで、創業以来この会社で靴を創り続けている職人が手がけた印です。革のカーブも、縫い目ひとつひとつも丁寧な職人技で仕上げてあります。もともとこの会社はこういった手作りの靴しか製造販売しなかったのですが、職人の数も減ってきて、五年ほど前から製造拠点を東南アジアに移し、お求めやすい靴も販売するようになりました。茶色の靴が、それです」  百瀬はサクライの靴を履いて帰りたいと思った。しかし値札を見て、あきらめねばならぬことを知った。 「やはり、さっきのにします」  店員は聞こえなかったのか、話を続ける。 「もうこの職人さんもお年ですし、これが最後の作品かもしれません」  七重はとことん女らしい習性を持っている。一点ものに弱い。 「これにしましょう」七重は決断した。 「ありがとうございます。よいお買い物をされました」  店員はふかぶかと頭を下げた。  決まったのだ。百瀬はしかたなくカードを店員に渡した。たったひとりの女性の話も聞かねばならないと野呂に教わった。いわんやふたりをや、である。  この買い物で店員と七重はたしかな満足感を得た。  一方、百瀬は女性と買い物をするべからずという教訓を得た。      ○  ビルの屋上で、大柄な女がベンチに座っている。  右手で日傘をさし、左手でサンドイッチをほおばっている。三角形の、コンビニで売っているミックスサンドイッチだ。女はサングラスをかけており、はちきれんばかりの肉体を白いブラウスとピンクのベストに押し込んでいる。OLの制服にサングラスは似合わない。髪は薄い茶色で胸まであり、ゆるやかにパーマがかかっている。  同じ制服を着たもうひとりの女は小柄だ。屋上のてすりに両肘をかけ、新宿の街を見下ろしている。大福亜子である。ショートカットの黒い髪が風に吹かれ、真一文字の眉をあらわにしている。 「大福先輩、たまにはおしゃれなランチしたくないですか?」  大柄な女はサンドイッチを口いっぱいにほおばりながら言う。声が妙に美しい。声だけ聞くと誰もが華奢なやまとなでしこを想像するだろう。それほどの美声だ。 「規則なんだからしかたないじゃない」  亜子は振り返り、腕を組む。五歳年下の春美《はるみ》のだらしなく太った体を見て、うらやましいと思う。まだ二十二歳。ゆだんしていられる年齢なのだ。 「毎日こんなところでお昼食べてたら夏までに真っ黒になっちゃう」  春美はココア味の豆乳をストローでちゅうちゅう吸う。  亜子と春美が勤めているナイス結婚相談所では、職員同士外で会ってはいけないことになっている。会話がはずんでつい会員の話題になり、会員情報が外に漏れては、信用を失うからだ。情報サービス産業は信用第一。守秘義務は徹底しなければならない。  春美はひとりで外食できないと言う。亜子は春美につき合って屋上で弁当を食べている。ここでは堂々、会員のうわさ話を楽しめる。 「先輩んとこの連敗男、どうなってます?」 「誰のこと?」 「丸めがねの弁護士ですよ。先輩が担当してる会員で、ふたケタ連敗してるの、彼しかいないじゃないですか」  亜子は組んでいた腕をほどき、腰に当てた。 「データ読んだの?」  ゆだんならない。会員データはパスワードで管理され、担当スタッフと社長しか見られない。公開用のデータはほかの職員も閲覧できるが、そこには連敗記録は記載されない。どうやって見たのだろう? 「あたしパソコン得意なんです。五歳の頃からハマってて、人のデータ覗くのなんて、コンビニで万引きするより簡単ですよ」 「あなたね」 「百瀬太郎、三十九歳。はっきり言って、連敗するタマじゃないです。まあちょっとださいけど、なんせ弁護士ですからね。いいフダもってる。なのに所内きっての敏腕アドバイザー大福先輩が売りに出さない」 「データ読んでたらわかるでしょう? 三十回も売りに出したわよ」 「大福先輩のカップル成立率、知ってますよ。四八パーセント。これはもう、ミラクルです。ほぼ二回の見合いで成立。大福マジック、って、陰でうわさされてますよ。それがあんないいフダもった男を三十回も失敗させるなんて考えられない。あたしはね、ある意図を感じてますよ」  亜子はウッと息を止め、春美の次の言葉を待った。 「カモマークですね?」  亜子はあきれた。 「あなた研修中なのに、なんでそんな言葉まで知ってるの?」 「当たり?」 「まさか!」  亜子は首を横に振るが、春美は自分の予想に確信を持っている。 「高収入のおひとよしさんは何年かプールして年会費を貢がせる。合いそうにない人を次々紹介して紹介料も貢がせる。会社がこの人と白羽の矢をたてたら、担当者はそのように動くんですよねっ」 「そういうのはあやしい相談所の手口でしょ。うちは優良企業として国からも公認されているのだから、そんなことはしませんよ。断じて」 「じゃあ、あの人、なんでめがねをはすさせないんですか? 随分印象変わると思うんだけどなあ。髪型もひどいし」 「あの人は、あれでいいの。わたしがちゃんといい人を見つけてあげるんだから」  春美はまだ納得いかない様子である。 「大先輩に向かってなまいき言うけど、お相手チョイスのコンセプト、間違ってると思うなあ。あの人にはもっと、素朴系の女性が合うと」 「人のことより、あなたはどうなの? まだ研修終わらないじゃないの」  春美はしょんぼりと肩を落とす。 「今、社長が模擬面接してくれてるんだけど、全然OKでなくって」 「どこがだめだって?」 「誠意が感じられないって社長は言うんだけど、だって、相手は社長だし、一生懸命お相手を捜す、なんてお芝居あたしにはできないですよ。あんなおじいさん」 「これからは高齢者の会員がどんどん増える。婚活高齢化時代よ」 「あごひげが逆三角形なんだもん。つい、目がいっちゃって。でがけにきちっと切りそろえているんだと思うと、おっかしくって」 「笑っちゃう?」 「笑っちゃう」  春美のこのぽかんと抜けた感じか亜子には愛おしい。恋愛するときは作戦をたてずにまっすぐに立ち向かい、やぶれると、泣く。泣いて食べて次へ向かう。そんな娘ではないかと思う。自分は無心に突き進むことはできない人間だ。特に恋愛においては内気で硬質な心を持っている。  春美は言う。 「そういえば、いつだっけ、お昼買いに行くとき、すごい車見ちゃった」 「スポーツカー?」 「ううん、あの、死体乗せて運ぶ黒い車」 「霊柩車?」 「そう、霊柩車。それも屋根みたいなののっけてて、すんごくデカくて長いの。あんな立派なの見たことないなあ。でさ、ああいうの、ちゃんと信号で停まるんですね。横断歩道でぴたっと停まってるの」 「救急車じゃないんだから、停まるでしょう」 「あわてて親指隠して、見ないようにして、走ってきた」 「どうして親指を隠すの?」 「そうしないと、親の死に目に会えないって言うじゃないですか」 「そんなジンクス知らない」  春美はふうっとためいきをつく。 「うざったい親でも、せめて死に目には会いたいですからねえ」 「親、うざいの?」 「田舎の親はわたしに期待してるんですよ。東京でヒトハタあげてこいって、出世を願ってるんです」 「都はるみファンで、あなたに春美って名前を付けたおとうさん?」 「演歌歌手って父にとって出世の象徴なんですよ。どんどん過疎化する村を思うと、子どもを都会に出して夢見たい気持ちもわかるんです」  春美は立ち上がって亜子の隣に立ち、手すりにもたれかかりながら街を見下ろす。 「あいつら」  春美はそう言って、はす向かいに見えるのっぽのビルを指差す。窓から若者たちが見える。みないっせいに前を向いて、ノートをとっている。 「かあさんの夢です。母はわたしをあそこへやりたかったんですよ」  亜子は驚いた。「夢って、あそこ、予備校よ?」 「そう。入学案内のパンフレット取り寄せて、土地を売ってでも行かせるって」 「予備校に?」 「オンシツコナジラミが大量発生して」 「オン? オン、なんですって?」 「オンシツコナジラミですよ。ちっちゃいくせに台風よりたちの悪い虫で、トマトが全滅したんです。父は土下座して農協から借金するし、わたしは進学やめて就職です。母はわたしを家政科の短大に進学させるのが夢だったから、せめて予備校に通って、一番安い講座でいいから受けてって、ぐずぐず泣いてましたけどね。土地は売ったらおしまいですから、そんなことはさせられませんよ」  亜子は窓のむこうの学生たちを見た。自分がそこへ通ったことがあるとは言えなかった。予備校へ通っている間、亜子は大学生がうらやましかった。けれど、予備校へ通うことを夢見る家庭もあるのだ。  のっぽビルの屋上では、作業服の男たちが、ヘルメットを被った頭で下を覗き、何かを吊り上げようとしている。それは巨大な看板で、裏を向いている。  春美は日傘を閉じながら言った。 「勉強なんて興味ないです。社会に出て、出世して、お盆に実家へ帰る時、こう、ちょっといい服着て、姪《めい》や甥《おい》にこづかいあげて、いいとこ見せてやりたいですよ」  亜子はうなずいて、空を見上げる。 「女の出世ってなんだろ?」  空に答えは書いてない。  サングラスをはずし、春美も空を見上げる。切れ長の涼しい目をしている。 「いいとこのぼんぼんつかまえて玉の輿にのるとか?」 「シンデレラ物語?」 「靴置いてくるなんて巧妙ですよね、シンデレラ。でもまあ、女なら誰だって作戦練りますよ。恋のためならね」  亜子は返事ができず、次の言葉をみつくろっているうちに、昼休み終了のチャイムが鳴った。      ○  東京本社最上階の社長室の窓からは、品川の老舗ホテルがよく見える。  昔はせいぜい十階建てだった都心のホテルは、世紀末に景気良く建て替えられ、今はみな日光を奪い合うように高層になっている。  大河内進は社長の椅子に座って、ホテルを眺めるのが好きだ。そこには多くの数の人間がいて、その倍の数の足があり、その先には必ず靴がある。ホテルにいるすべての人間の足がシンデレラシューズで覆われる日を社長の大河内は夢見ている。  むっちりとした手首にはめた銀色の腕時計を見る。三時を五分過ぎている。念のため部屋の掛け時計を見る。ごてごてと飾りのついた掛け時計は見辛い。がこれも三時を五分過ぎている。 「たしかな人間だろうな」  やや含みをもった言い方で、秘書を見る。  秘書は黒いスーツを着ている。美人に黒はよく似合う。和風美人だからなおさらだ。靴も黒で、シンデレラシューズ最高級品サクライ印のハイヒールだ。 「秦野《はたの》先生のご紹介ですから間違いないでしょう」  秘書の返答に大河内は苦い顔をする。 「秦野先生なら信頼できるのに」 「今回のことはこちらに特別な事情があるのですから、しかたありません。我が社の顧問弁護士である秦野先生がこの件に関わらないと決めたのは、賢明なご判断と言えましょう。万が一このことが他に漏れたら、我が社の経営自体もあれやこれやと詮索《せんさく》され、査察《ささつ》が入るやもしれません。そうなると株は暴落してしまいます」 「外に漏れたら困る」 「漏れたら漏れたで、一介の弁護士のせいにすればいいんですよ。指南されたとかなんとか。だから一介の弁護士じゃないとだめなんです」 「うむ」 「とかげのしっぽですよ」  大河内は再び腕時計を見る。三時を七分過ぎている。 「遅いな。とかげのしっぽは」  待ち人が現れたのは、約束の時間を十五分過ぎ、いらいらした大河内が煙草をくわえた瞬間だった。入って来た男を見て、大河内は一瞬、「とかげのしっぽにしても、あんまりだ」と思った。  年代物の丸めがね、会社説明会に押し寄せる大学生が着るような安っぽい紺のスーツ、襟にはゴールドのバッジが光っているが、そんな安物に付けられてはバッジがあわれというものだ。華奢な体で、ろくなものを食べてない人間に見える。それに、髪だ。ぼさぼさで理念が感じられない。そんなものを乗っけたまま、頭がまともに働くのだろうか? 七対三とか八対二とか、五対五でもいい。配分を決めてきっちりと、右と左に分けるべきだ。  不安になって秘書を見ると、秘書の目はいきいきと、男の足元を見ている。まぎれもなく、サクライ印の最高級自社製品だ。  この瞬間、大河内は「いけるかも」と思った。頭の先から足元まで最高級を決めるのはむしろ簡単で、野暮である。たった一点、最高級を身につけることこそが難しく、イキだ。そう聞いたことがある。たしかおふくろの三千代がそう言っていた。しかもそれが靴で、自社製品の一級品となれば、こんなに確かなことはない。 「百瀬太郎です。遅れて申し訳ありません」  イキな男は名刺を差し出した。それを秘書が受け取って、秘書も名刺を差し出す。 「秘書の伊藤《いとう》と申します」  百瀬は名刺を受け取って、「いとうゆかり」とつぶやいた。  伊藤は自分の名前が気に入らないのか、そのつぶやきを聞き流すという形で無視した。 「秦野先生からあなたのお名前を伺いまして」  言いながら大河内はソファに座り、百瀬にも座るよう、手で指示をした。  百瀬は会釈をし、行儀良く座った。  ふるまいはまるで若造だと大河内は思った。もう少し探ってみよう。依頼はそれからだ。 「社長の大河内です。いきなり呼びつけて申し訳なかったですな」  大河内は百瀬の丸めがねをじっと見る。案外、とんでもない値打ちもののアンティークかもしれない。 「先生は東大の法学部を首席で卒業されたそうですね」 「ええ」 「その年に司法試験に受かったと聞いています」 「はあ」 「どんな英才教育を受けたんですか? ずいぶん教育熱心なご家庭に育ったんでしょうなあ」 「あの」 「は?」 「依頼に関係ありますか?」 「関係あります。依頼するかどうか、あなたが信頼できる人なのか、今、取り調べ中ってわけですわ」  そう言われて百瀬は何か考えている風だったが、小さく頷くと「どうぞ」と言った。 「なぜウエルカムオフィスをやめたんですか?」  大河内は煙草に火を付けながら質問した。 「秦野先生から聞いてませんか?」 「聞いていますが、あなたの口からも聞いておきたいんです」  百瀬は一瞬天井を見た。それから軽く頭を振って、話し始めた。  ウエルカムに入った当初は秦野先生の下で働きました。仕事は企業買収がらみの訴訟が中心です。ある時、ペット訴訟の依頼があり、わたしに一任されました。「練習だと思ってやってみなさい」と秦野先生はおっしゃいました。勝っても負けてもかまわなかったのでしょう。クライアントの親戚筋からの依頼で、引き受けたら義理が立つから、という話でした。わたしは初めての担当で精一杯の仕事をしました。民事訴訟で被告側の代理人という立場でしたが、原告の訴えを被告が納得して受け入れる範囲でおさめることができました。 「世田谷猫屋敷《せたがやねこやしき》事件ですね?」大河内は興奮して口をはさんだ。  この事件は印象深い。問題発生時は新聞の第三面の片隅扱いだったが、やがて裁判になり、ワイドショーでもとり上げられ、判決が出た時は新聞の第一面を飾った。日本人ならそのほとんどが記憶にとどめている事件だ。顧問弁護士の秦野からも「世田谷猫屋敷の一件をひとりでまるく収めた男ですから」と紹介されたのだ。  大河内はもう一歩突っ込んで聞いてみたかったが、百瀬は次に話を進めてしまった。  ええそう、世田谷猫屋敷事件です。世間を騒がせましたが、わたしとしては理想的な終わり方にもっていけました。あの事件がマスコミに広くとり上げられたため、ペット訴訟の依頼が押し寄せました。ウエルカムは国際弁護士を複数かかえるビッグオフィスです。依頼は国内に留まらず、常に手が足らない状況で、すべてを引き受けるわけではありません。オフィスには調整部という事業仕分け部署がありまして、経済効率の高いものから選んでゆきます。ペット訴訟は前例が少ないため、多くの検証が必要となり、証拠集めにも時間がかかる。裁判も長引きます。回転率が悪く、儲かりません。調整部としてはペット問題は断りたい。しかしマスコミが注目している間は無下《むげ》にもできず、それらはすべてわたしに回ってきて、秦野先生のサブはできなくなりました。ペット問題専門弁護士のように各方面から指名されるわたしは、オフィスの足をひっぱる存在になってしまいました。途中の案件をかかえたまま独立するよう、トップから要請があり、入所十年目に独立しました。 「わかりました」  大河内は二本目の煙草を火のついたまま灰皿に置き、「ちょっと失礼します」と立ち上がって、秘書と共に社長室を出て行った。  百瀬はひとり取り残され、座ったまま部屋を見回した。  広い。ここだけで百瀬の事務所の二倍はある。  昨夜遅く、先輩弁護士の秦野から携帯に電話があった。自分が顧問をしている会社の社長から相談を受けたが、顧問弁護士が引き受けるとまずいことになりそうだ。そちらで引き受けてくれないか、と言う。  秦野は百瀬にとり新人時代の指導員であり、世話にはなった。しかし、事実上リストラに近い独立の話をオフィスのトップから言い渡されたとき、秦野の進言によるものだと百瀬は察した。  だから今回の依頼は引き受ける義理はない。が、シンデレラシューズという企業名に心惹かれた。昨夜、女ふたりにそそのかされて購入に踏み切った靴だが、予想以上に履き心地が良い。シンデレラシューズを履いて人生を一からやり直したいくらいのフィット感である。こんな良質の商品を作っている会社の社長はどんな顔をしているのだろうと、興味を持ってここへ来た。  しかし今のところ大河内はごく普通の商人に見える。  シンデレラシューズは数年前から本業の靴製造販売以外に、貴金属輸入販売にも手を出し、不動産売買も始め、取り憑かれたように事業を拡大し、このような都心のビルに引っ越した。功利主義の匂いがこの社長室にもぷんぷん漂う。  社長室の隣に秘書の控え室があり、そこで大河内は伊藤にささやく。 「秦野先生の説明と一致するな。嘘はなさそうだ」  伊藤はめがねをはずして艶《つや》っぽい声でささやく。 「正直そうで誠実そうじゃないですか。それに世田谷猫屋敷事件の弁護士ですよ。スターです。ウエルカムオフィスも冷酷ですよね、スターを切るなんて」 「利益を生まない人間は企業にとりゴミと同じだ。経営者としては当然だ」 「人も好さそうだし、大丈夫、彼に決めましょう。きっと助けてくれる。あの人きっと正義の味方ですよ」  大河内は皮肉な笑みを浮かべる。 「正義の味方とはね。俺たちが正義か?」  伊藤は大河内のあぶらっぽい顔を両手でそっとはさみ、つま先だってキスをした。長いキスだ。  唇を離すと、伊藤は大河内の唇についた口紅を親指の腹でぬぐう。 「いい? わたしたちが主役なの。主役は常に正義なのよ」  すでに百瀬はくつろいでいた。消えたふたりはもう二十分戻ってこない。大河内が置き去った煙草はとうに燃え尽きた。今日は副流煙をたっぷり吸わされたなと思う。  出された日本茶は香りが豊かで非常にうまい。もう一杯欲しいが、秘書の伊藤は社長と共に消えたままだ。あの秘書はきっと有能だろう。おいしい日本茶をいれる才覚ですべての事務をこなせば、ボスはかなり楽なはずだ。  百瀬は七重にもう少しおいしいお茶をいれてほしいが、そういうことは口に出せない。「お茶汲みは事務のうちに入りません」といきりたつに違いない。百瀬法律事務所では、お茶は飲みたい人間が飲みたい時に自分でいれるという暗黙のルールがある。そして百瀬は、自分が飲みたい時に自分の分だけいれてよしとする太い神経がない。つい、人の分までいれてしまう。三人の中では百瀬がいれるお茶が一番うまい。だから野呂も七重も百瀬の喉が渇くのを待っているフシがある。  相談が終わったのか、大河内は社長室に戻って来た。残念ながら秘書は戻って来ない。からの湯のみを前に、百瀬は大河内の依頼を聞く事になる。 「実は一昨日、会長の葬儀がありまして」 「それは御愁傷様《ごしゅうしょうさま》です」 「会長はわたしの母です。うちは取引先も多いので、社葬を行いました。挨拶は無事済みましたが、最後の出棺のところでトラブルがありまして」 「トラブル?」 「霊柩車が消えたのです」 「は?」 「霊柩車が消えたのです。柩を乗せたまま」 「それはまた……」  大河内は葬儀場のカタログを見せた。そこにはさまざまな料金表があり、霊柩車もいくつかランクがある。大河内は一番上の写真を指差した。 「この霊柩車です」 「宮型ですね。キャデラックのリムジンだ」百瀬は写真を興味深く見つめた。 「一時間後、犯人から連絡がありまして」 「犯人? 手違いではなくて、霊柩車は盗まれたのですか?」  大河内は身を乗り出して頷く。 「霊柩車ジャックです。犯人は母の身代金を要求してきました」 「母? ご遺体ですよね? 遺体の身代金ということですか?」 「そうです。遺体を返して欲しければ千五百四十万円用意しろと」 「千五百四十万? ずいぶん細かいですね。確かにそう言ったんですか?」 「ええ、わたしも商売人ですから数字は一度聞けば覚えます」  百瀬は天井を見た。頭蓋骨にすきまを作り、発想を広げるのだ。すきまができれば前頭葉に酸素が行き渡り、活性化する。酸素をたっぷりと送った後、発言した。 「これだけの規模の会社の会長でしたら、生命保険が相当額おりると見込めます。億ぐらいふっかけてきてもよさそうですけどね。それにこの霊柩車、売ってしまえば二千万相当になるでしょう」  大河内はせきばらいをして、その発言には同意も反対もしなかった。 「とにかく犯人はその金額を用意しろと言ったのです。電話は葬儀場にかかってきたのですが、喪主であるわたしが出て、携帯番号を教えました。犯人はわたしを知らない様子でしたが、それも手かもしれません」 「声に聞き覚えは?」 「ありません」 「なにか特徴はありませんでしたか? 外国人ぽい発音だとか、方言だとか」 「抑揚《よくよう》は関西人でした。うちの会社は大阪にも支社があります。関西にはライバル社の本社もあります。会社の事情を知っているものがやったのかもしれません。受け渡し場所等の細かい指示はのちのちこちらにかかってくる予定で」  大河内は携帯電話をテーブルに置いた。 「連絡は?」 「まだありません」 「二日たったわけですね」 「はい」 「警察は?」  大河内は首を横に振った。 「警察に通報したり、金を用意できなかった場合、柩を車ごと爆破するそうです」  百瀬は再び天井を見た。わざわざ派手な霊柩車を盗み、たったの千五百四十万を要求し、警察に言うと爆破すると言う犯人の狙いは何だろう? そもそも犯人像がつかめない。 「犯人はおふくろを火葬してくれるそうですわ」  そう言って大河内はハハハと笑い出した。  百瀬はびっくりして大河内を見た。これが母親の死体を奪われた人間だろうか。心底おかしそうに笑っている。母親との関係は良好だったのだろうか。  そこへ秘書の伊藤が入って来た。香りの良い珈琲《コーヒー》を盆に載せている。黒い服は喪中だからだと百瀬は気付いた。社長の大河内も濃いグレーのスーツに同色の地味なネクタイをしている。  伊藤の微妙な変化に百瀬は気付く。ぴっちりとひっつめた髪がひとすじ肩に落ちている。ブラウスのボタンがかけちがっている。  伊藤は言った。 「身代金は既に用意しました。今後犯人と連絡をとりあい、霊柩車を柩ごと返してもらいます。とにかくきっちり、そのままの状態で戻してもらわねばなりません。柩には指一本触れてほしくないのです。百瀬先生にお手伝いいただきたいのは、これら一連の対応です。内々で犯人との交渉を進めてもらいたいのです」  百瀬はひっかかりを感じた。この依頼は矛盾に満ちている。 「いいですか? これは犯罪ですよ。生きている人間ではないので、誘拐罪ではありませんが、窃盗罪と、恐喝罪に当たります。間違いなく刑事事件です。警察に通報すべきです。こう言ってはなんですが、犯人に悟られても、かまわないではないですか。たしかにご遺体は大切ですし、指一本触れられたくないのはわかります。でも人命に関わる事ではないのですから」 「警察が関与したら困るんです」  大河内が遮るように言った。 「わたしたちはあなたに知的アドバイザーとして協力して欲しいのです。あなたの頭脳をお借りしたい。わたしたちは困っている。あなたは正義の味方だ。助けてくれると信じています」  百瀬は驚いた。資本主義の申し子のような男の口から「正義の味方」という言葉が出るなんて。しかもその言葉は、そっくりそのまま、百瀬がバッジを胸にした瞬間心に誓ったものだ。正義の味方になりたいと。  百瀬は大河内を見た。ぴっちりと七三に分けた髪、額には脂が光り、銀ぶちめがねの奥は細い目がせわしなく泳いでいる。 「何か隠していませんか?」  百瀬は大河内に言った。すると大河内はにたりと笑った。 「隠すつもりはありません。まだ全部をお話ししていないのです。大事なことをこれからお話しします。その前に引き受けるとお返事いただきたいのですが」  いったいどんな話が出てくるのだ?  困って目を落とすと、足元が見えた。黒い靴がしっかりと足元を包み、支えてくれている。これから一生、サクライ印の靴を履き続けたい。そのためにはこの会社の窮地を救うべきかもしれない。  靴のためだ。 「お話を伺います」  大河内と伊藤は顔を見合わせ、頷いた。 「会長の大河内三千代について、お話しします」  大河内は話し始めた。    第三章 迷子の霊柩車 「腹減ったで。なんか食わせてぇや」  助手席の田村《たむら》は頬をふくらます。頬が丸く、二重|顎《あご》。腹は妊婦さながらにふくらんでおり、肉がたっぷりだ。大型リムジンは助手席がふたりぶんある。そのスペースをひとりで悠々と占めている。 「こんな車でファミレス行けると思うんか!」  毒づきながら運転する木村は、鼻が高く、鼻先は矢印のように下を向き、頬はこけている。身長は田村と同じだが、体重は二分の一もないだろう。兄貴分のように振る舞っているが、助手席の田村と年齢は同じ、今年仲良く三十になる。  木村は猫背をいっそう丸くしてハンドルを握りしめる。細長い指がハンドルにからみつき、大きな目はこぼれ落ちそうだ。落ち着きのない表情でひたすら都会の道を突っ走る。 「寒い」田村が言った。 「なんやいつも暑がりのくせに」 「クーラー止めてええ?」 「あかん、腐る」  田村はバックミラーを覗き、納得する。  相棒が運転に夢中なので、田村は空腹も寒さもまぎらわすしかなく、窓から外を眺めることにする。 「あっ、木村、あれ見てみぃ、シンデレラやで」 「うるさい! 運転中や。よそ見できるわけないやろ」 「あー、あかん。もう見えへんわ」  田村があまりに残念そうなので、木村も気になった。 「……そないええ女やった?」 「女ちゃう。シンデレラや。なんやこう、ごっついガラスの靴、飾ってあったで」 「ガラスの靴? 街ん中に、そんなもんあるんか」 「お気楽やなあ、東京は」 「ゲージュツ言うやつちゃうか」  木村はアクセルを踏む。どこをどう走っているのか、とりあえずまっすぐに走っている。 「テレビ付いとるで」 「なんやて?」  木村は相棒が指差す先を見る。ハンドルの左横に小さな画像モニターが見える。 「カーナビや!」 「なんやそれ」 「行き先を教えてくれる地図や」 「どこ行ったらええか教えてくれるん?」 「あほ。占いちゃうで。行き先を入力すると、そこへ連れてってくれるんや」 「東京って、そんなん車に付いてるん?」 「東京だけちゃう。今はふつーらしいで」 「配送のバイトしたときはなかったやん」 「あれはしけたバイトやったな」  田村が返事をしないので、木村はちらっと相棒を見た。太い親指でカーナビの画面を押している。遊び道具を得て、しばらくおとなしくしてくれそうだ。  今後の計画を考えながら車を走らせていると、女がしゃべった。 「次の信号を右です」 「なんやて?」  木村はあわてて右折レーンに入った。 「ははははははは」田村は笑う。「しゃべるで、カーナビ」 「お前、何したんや?」 「銀座、って入れてみた」 「あほ!」 「はははははは」  女は一方的にしゃべる。木村は思考がまとまらず、女の指示通り走るしかなかった。  やがて赤信号につかまった。横断歩道を渡る人々がじろじろと車を見る。屋根が付いた宮型霊柩車は今どき珍しいのだろう。しかもリムジンの大型だ。目立つ。  ランドセルを背負った子どもが三人、親指を隠して車の鼻先を走り去った。  田村は大声を出す。 「お、見てみい。ほら、霊柩車見た時、親指を隠さんと、親の死に目に会えへんって、なんかそない縁起担ぎあったやん」  木村も懐かしそうに相槌《あいづち》をうつ。 「あったあった」 「ほら。あのOLも親指隠してるで。あの縁起担ぎ、全国共通なんやな」  木村は女を見て吹き出す。 「あの女、お前と同じくらい肥えてるやん」 「太った女は情が深いんやで。あん子、銀行員やな。ちゃう、ピンクの制服やから、歯医者の受付って感じやな。きっとお昼買うたんやで。さげとる袋、サンドイッチ入っとる思うわ。サンドイッチ……」  田村はつばを飲み込む。  信号は青に変わり、木村はアクセルを踏む。 「親の死に目って普通、会いたいもんやろか」  木村の問いに、田村は答える。 「おいら、ひとが死ぬ瞬間は絶対見たくないで」  木村も同じ気持ちだ。死ぬ瞬間を見たくない男がふたり、死体と共に移動している。  田村はそわそわし始めた。腹がすくと禁断症状のように落ち着かなくなる。気をまぎらわそうとモニターをあちこちいじっているうちに、ナビは機嫌をそこねたのか、ぷっつりと黙ってしまった。代わりに腹がぐう、ごお、と休み無く鳴る。 「ドライブスルーでええよ。ハンバーガーとか、かしわのフライとかやな」 「こないごつい車でスルーできるわけないやろ! 頼むし黙っててくれ!」  木村の目頭に涙がたまっているのを発見し、田村はぎょっとする。木村の涙は見たことがない。 「泣かんといてや、木村」  言いながら田村は遠慮なくおいおいと泣き出す。 「ぜんぶおいらが悪いんや。かんにんしてや、いつも木村はおいらの尻拭《しりぬぐ》いばかり」  大男が泣き出すと派手だ。うぉんうぉん、うぉんうぉん。体の成長に栄養をとられて、頭と心は子どものままなのだ。  木村は運転しながら太った相棒をちらちらと見る。 「おいお前、鼻ちょうちんできてるやん。すげえ、きれいにできてる」  田村は泣き止み、バックミラーに顔を映して鼻ちょうちんを見る。 「ほんまや」 「あはははは」 「ふはははは」  田村が笑った拍子にちょうちんは割れ、鼻水がとび散る。 「きったないなぁ。あははは」  車内の空気は一気になごやかになる。ひとしきり笑うと、田村がつぶやく。 「おいらたち、なんで舞台やとウケヘんのやろ」  木村の表情から笑顔が消えた。  宮型霊柩車はぎこちない動きでオフィスビル街の路地裏に入って行き、人通りがない場所に停まった。  木村はエンジンをストップさせ、携帯電話を握りしめる。 「いっぺん電話を入れるで」  木村は運転席の脇にあるスケジュール表を取り出す。正当な運転手が置いていったものだ。本日の記入欄には「大河内家」とエンピツで書かれてある。スケジュール表の端に葬儀場の電話番号も載っている。その番号を携帯に打ち込んで行く。 「なんてかけるん?」田村は木村の顔を覗き込む。 「霊柩車をジャックした。大河内に代われ、やな」 「大河内って誰や」 「喪主や。ここに書いてあるやる。たぶん喪主やと思う」 「喪主が出たら?」 「誘拐した。無事に返して欲しかったら金を用意しろ、やな」 「いやだと言ったら?」 「命はないぞ」  すると田村は後方を見る。黒く薄いカーテンに仕切られて、柩が見える。 「すでに死んでへん?」  木村は真っ赤になって叫ぶ。 「あほ!」  田村は気にしない。木村のあほは口癖のようなものだ。動転するとこう叫んで考えをリセットする。リセットされた頭からは、次の答えが導き出された。 「爆破する、と言うたる」 「そりゃあ名案や。いかすで。爆破してやれ」 「あれ? 電波が届いてへん。この場所はだめや」  木村は運転席のドアを開け、降りながら言う。 「ちょっくら電波の届く場所まで行ってくる。ここを離れたらあかんで」 「ああ、わかった」  田村の「わかった」を聞くと、木村は不安になる。 「腹の具合はどうや?」 「すいとる」 「あほ、傷や。痛くないか?」 「治ってしもた」 「あっちはどや。今朝みたいにいきなり出る、出る、なんつって、路上ですなよ」 「ごめんなさい。あれは急にきたんや」 「尻拭いたハンカチくらい捨てろや」 「ハーちゃんからもろた大切なもんやったんで。いくら木村でも川に捨てたんは一生許さへん」 「あんなうそつき女忘れたれ」  すると田村は再び泣きそうになった。  あわてて木村は優しい声で話しかける。 「憧れの新宿、行けたやないか」 「芸人の聖地や」 「聖地にあんな置き土産するやなんて、お前は大物やな」 「おれ、大物?」田村はうれしそうに顔を上げる。 「大物すぎて腹出とる」  田村のシャツの裾から白い肌がはみ出している。肌に貼り付いたガムテープがちらりと見える。 「ははははは」  田村はすっかりご機嫌になって、笑顔を取り戻した。 「とにかくここにいてろ。目立つ事すなよ」  木村はドアを閉め、走った。心配で一度振り返ってみると、ぎょっとした。  都会の路地裏に不似合いな宮型霊柩車は、これでもかとでかく、黒く光って、自己主張している。車内にいると慣れてしまうが、外から見るとそうとう変だ。さっさとことを進めないとまずい。  木村は再び走った。軽快な走りだ。運動会では常にスターだった。将来はインターハイ出場も夢ではないと言われたが、高校には進学しなかった。社会に出ると、足が速いことなんて、なんの評価にも当たらない。だから木村はもう、自分の足が速いことなどすっかり忘れてしまっている。  大通りに出た。携帯を見る。電波は充分だ。さっそく葬儀場に電話する。呼び出し音が鳴っている間、霊柩車に乗り込むまでを思い出していた。  都会をさまよった挙げ句、田村と入り込んだ見知らぬ寺。でかい寺で、豪華な霊柩車が待機しており、なぜか運転手が降りた。これは神か仏のおぼしめしだ。今しかないと、田村と共に乗り込んだ。鍵はささっている。が、仏の名前もわからない。そのうち喪主らしき男の挨拶が終わって、参列者が霊柩車を見送ろうと取り囲み始めた。喪主が乗り込んできたらおしまいだ。  田村が「行け! 行け!」と催促する。「名前を確認してへん!」  もみあっているうちに、クラクションが鳴ってしまった。参列者を見ると、手を合わせている。こうなったら行くしかないと、車を出してしまったのだ。  仏さんは男か女か、年寄りか子どもかわからない。盗んだ死体の顔なんぞ見たら末代まで呪われそうだ。  思えばたいした計画も無くここまできてしまった。さてどうやって金を要求しよう。  斎場の事務員らしき男が電話に出た。 「こちら東園寺でございます」  もうあとにはひけない。 「おたくの霊柩車をジャックした」と言ってみる。  すると相手は「あっ」と叫んだ。相手がびっくりしたので木村は急に落ち着いた。ここはしっかり犯人らしくふるまおうと決意する。 「喪主と話をしたい。喪主を呼べ」 「少々お待ち下さい」  いらいらするほど待たされた挙げ句、出て来た男はいきなり名乗った。 「大河内だ」  声からすると、中年男だ。喪主の挨拶をしていた男に違いない。この中年男にとって、あの柩の遺体は誰なんだ? 父か? 母か? 「仏さんは預かった」と言ってみる。  すると大河内はささやくような声で「お前は誰だ?」と聞いてきた。心当たりでもあるのだろうか。木村は質問を無視して言った。 「仏さんを返して欲しければ千五百四十万円用意しろ。さもないと車ごと爆破する。警察には言うな。言ったら最後、仏さんは戻って来ないと思え」  ひといきに言い終わり、自分のセリフにうっとりとする。刑事ドラマをたくさん見ておいてよかった。意外とすらすらと言えるものだ。標準語もばっちりだ。  木村は知らない。言葉には抑揚というものが存在することを。「しろ」とか「する」と言えば、標準語をしゃべったと思い込んでいる。生まれ落ちてから毎日耳から入り、しゃべり続けた言語はもう、体中の細胞に染み渡り、一生つきまとうのだ。  木村は満足げに笑みさえ浮かべた。借金は千五百万である。その金に気持ちプラスしておいた。千五百万で借金を完済し、残り四十万はふたりの金にしよう。そうだ、大阪に帰る前に田村においしい飯を食わせてやろう。  抜け目無くやれたと思う。あ、爆破という単語をまだ言ってなかったっけ。 「爆破する」  言ったとたん、既に発音していたと気付く。まあ、念を押したということでいいだろう。この言葉が効いたのか、相手は言った。 「金はすぐに用意する。そのかわり柩には指一本触れるなよ。絶対だ。覗くのもよせ。家族の思い、あんたもわかるだろう? 今後の連絡はわたしの携帯にくれ」  大河内は落ち着いた口調ですらすらと番号を言うと、電話を切った。  木村は唖然とした。刑事ドラマの誘拐事件では、電話は犯人が切るものだ。家族はもっと追いすがるものだ。なんでこうなる? 第一、携帯番号を聞き逃してしまった。数字を覚えるのが苦手な上に、筆記具も無い。なにより相手の落ち着きに気圧《けお》されてしまったのだ。  大通りの歩道で呆然と立っていると、声をかけられた。 「キムラタムラのキムラじゃない?」  見ると、女子高生がふたり、きゃあきゃあ言いながら、携帯電話をこちらに向け、シャッターを切っている。 「キムラ、東京進出したの?」 「いつテレビに出んの?」 「うわ、ほっそ。見て! 足の間からほら、ムコウが見える!」 「タムラは? ジュゴンみたいなやつ」 「あたしら応援してっからさあ」  木村は真っ青になり、「人違いです」と言いながら走り出す。  後方で、「たいどわりー」「うぜー」「逃げ足はやっ」などと声がする。  声から逃げるように走った。涙があふれる。  東京の女の子が俺たちを知っている!  和歌山の田舎町で共に育った田村と、中学を卒業して大阪に出た。アルバイトをしながら、ふたりはお笑い芸人を目指した。夜の公園で練習し、お笑いコンテストに挑戦し続けたが、十年間予選落ちが続き、あきらめかけたときに最終選考に残った。入賞こそできなかったが、小さなイベント会社との契約にこぎつけた。  最初に得た仕事は、デパートの屋上でやる子ども向けのチリメンジャーショーの前座だ。そこでキムラタムラというコンビ名でデビューした。早朝でも深夜でも、来る仕事はすべてやった。重宝がられて遊園地に呼ばれることもあった。イベント会場ではそれなりに仕事があった。  月収が高卒の会社員の初任給くらいになった時。田村が女に騙《だま》された。初めて入ったバーのホステスがやくざとつながっていて、たった一度の飲み代をツケにしたら、一ヵ月で百万になった。取り立て屋から逃げ回っているうちに、借金は千五百万となった。「誘拐でもして身代金稼いで来いや!」やくざは短刀で田村を斬りつけた。  白い脂肪が傷口からはみだし、にょろにょろと細い血が流れた。  腹から血を流して泣いている田村を見て、木村は犯罪に手を染める決心をした。相棒を見捨てられない。田村の借金は自分の借金だ。  ふたりは気が弱い。人を誘拐して監禁するなんてできそうにない。死んだ人間ならば黙って従ってくれる。そう考え、霊柩車ジャックを思い立った。新しいコントを考えるより簡単だった。  顔を知られている地元ではなく、東京でならやれそうかもと、最後の金を新幹線に使い切ってやってきた。山手線内ならその切符で行けると聞き、まずは憧れの新宿へ行ってみた。それから葬式を探して歩きに歩いて、もう一歩も無理やと田村がへたりこんだ時に、大きな寺が目に入った、というわけだ。  キムラタムラの未来なんて道頓堀《どうとんぼり》に捨てて来た。なのに、こんな東京のどまんなかで、キムラタムラを知っている人間に出会うなんて。  木村は後悔した。時計を数時間前に巻き戻したい。  あのまま大阪でがんばり続ければ、いつかテレビに出られたかもしれない。そのうち運も回って来て、芸人として堂々、東京に来る事もあったかもしれない。そしたら新幹線の指定席券が買え、駅弁も座って食べられた。  あの女の子たちは修学旅行でキムラタムラのコントを見たのだろうか。覚えていてくれたのだから、芸人として少しは見どころがあったのかもしれない。千五百万という途方もない大金と、田村の腹の傷に動転し、夢も希望も失ってしまった。  木村は突然、走るのをやめた。  そしてゆっくりと、今来た道を戻り始める。夢も希望も失ったが、田村を失うわけにはいかない。親のいない木村にとって、田村は唯一の家族だし、田村にとっても木村は唯一の家族だ。  家長として、やりかけた犯罪を全うしよう。  宮型霊柩車が見えて来た。  田村、一瞬だけど見捨てようとした。ごめん。  ところが中を覗くと田村がいない。  あたりを見回してみる。甘い匂いがして、歌が聞こえて来る。 「にこちゃんにこにこ、にこにこドーナツ。ほうら笑顔がまーるまる」  スピーカーから聞こえる音声を頼りに路地の奥の方へ歩いて行くと、白いワゴン車が停まっており、人の列が出来ている。ドーナツの移動販売だ。列のまんなかあたりに、田村が立っている。視線が定まらない、どろんとした目付きだ。  木村は走って行き、田村の腕をつかみ、ひきずるように列から離した。  田村は口をとがらせる。 「十分も並んでたんやで。あと五分もすれば買えたとこやのに」  木村はカッとして、一発殴った。頬を殴ったのに、田村は腹を痛そうに押さえる。ガムテープを貼って逃げるように新幹線に乗った。傷口がどうなっているのか、木村にはわからない。  霊柩車の前まで来ると、あたりに人がいないのを確認し、木村は声に出して怒った。 「仏さんに何かあったらどないするんや!」 「そやかて、腹へって死にそうやってん」  田村は体を揺らしながら言い訳をする。  田村にとり食べ物は、ほかの人間にとっての空気と同じだ。しかし木村は許す気になれない。 「仏さんが無事か、顔を見てこい」 「顔なんか見られへん。死体やで」 「車を離れた罰や。見い」 「いやや」 「誰のせいでこないなことになってん」  田村は黙った。すべては自分がバーで一杯飲んだのが発端だ。 「見る。見るからそばにいててや」  車の最後部は観音開きになっている。木村がドアを開けると、田村は重い体を不器用に揺らしながら乗り込んだ。  柩を目の前にして田村は「どうやって見るん」とつぶやく。 「窓付いとるやろ。そこ開けるんや」 「窓付いとる」田村は言い、両手を合わせて目をつぶった。 「ぐずぐずすな」  田村はようやく決心し、観音開きの窓を開いて、そうっと覗いた。 「どや?」木村はじれて催促する。「じじい? ばばあ? おっさんか?」 「いてへん」 「なんやて?」  木村はあわてて乗り込み、田村を突き飛ばすと、窓を覗く。あるべき場所に顔が無い。  田村は「体が下にずれたんちゃうか?」と言いながら、柩をカタカタゆすってみた。ふたは釘うちしておらず、簡単にはずれた。  柩の中はすっからかんの空洞であった。  木村は叫んだ。 「あほ! お前がドーナツ買いに行ったから、逃げられたやろ!」 「そやかて死体が逃げる思えへんかってん!」 「あほ! 死体が逃げるわけないやろ!」  木村と田村は柩の横で、女のようにへたりと座ったまま、しばらく何も言えなかった。 「にこちゃんにこにこ、にこにこドーナツ。ほうら笑顔がまーるまる」  歌が聞こえ、ドーナツ屋のワゴン車が見える。場所を移動するためゆっくりと動いている。 「盗まれた。車上荒らしや」木村はつぶやく。 「きっとそうや。東京は物騒なとこや」 「金と交換するまでに、死体を調達せんとあかん」 「調達せんとあかん」  木村はいきなり田村のズボンのポケットに手を突っ込むと、小銭をつかみ、引っ張り出した。 「木村、かんにん。それ全財産や」  泣きすがる田村を蹴飛ばすと、木村は霊柩車を降り、走り去った。  田村は追いかける気力もなく、膝を抱え、柩に寄りかかった。肩に感じる柩の冷たさは死体のようであった。  とうとう相棒に捨てられた。腹はへる。友はいない。自分はじき死ぬだろう。柩の中で寝ている自分を想像してみるが、体が入りそうにない。少しは痩せないと、安心して死ねない。田村は生まれて初めてダイエットの必要を感じた。  いきなりドアが開き、木村が甘い匂いのする紙袋を抱えてきた。 「まずは食おう。腹いっぱい。それから考えよう、な、田村」  田村はほっとしたものの、それが顔に出ぬほどに疲れ切っていた。  木村は田村の肩を叩いた。幼い頃からいつも、ふたりはこうやって生きて来た。学校でいじめられたときも、漫才のネタで煮詰まったときも、こうしてふたりで乗り切ってきた。  死体の調達だって、できるに違いない。      ○  七重は応接室に耳をぴたりと寄せ、ぴいんと背筋を伸ばしている。  野呂はパソコンで帳簿のデータ入力をしながら、七重が貼り付いている応接室のドアをちらちらと見てはためいきをつく。今日の依頼は成立しないだろう。そんな勘が働く。野呂はもう五年、百瀬と共に仕事をしてきて、百瀬の性格やら仕事の運び方やらを間近に見てきた結果、今日の依頼人は約三十分の面談で終わる。そう予測し、本日の収入欄に早くも5250と数字を打ち込んでみる。  依頼が成立せず相談で済んだ場合、三十分につき五千二百五十円の相談料となる。これは百瀬法律事務所の価格設定であり、法律相談料としては最低ランクである。百瀬が元いたウエルカムオフィスでは、新人弁護士でも相談料は三十分で一万五百円からという価格設定だった。  一見すると弁護士の相談料は世間一般の労働時給よりも高く感じられる。しかし着手金や報酬金が発生せず、前後の下調べや事務処理も加算されないため、事務所の維持費など様々な経費を差し引くと、相談料だけでは赤字となる。  できれば正式に依頼という形で受けたい。着手金を得た上で、短期でどんどん訴訟を片付けて回転率を上げれば、事務所の収益はぐっと上がる。きっと百瀬だって、もっと収益を上げたいと思っているだろう。そのはずなのだけれど、野呂の目には百瀬が経営努力をしているように見えない。百瀬の脳は「相談事を万事まるく平和的に解決する」ほうにばかり稼働するようだ。  野呂は思う。百瀬は奇人だと。凡人には見えない多くのものが見え、凡人に見えているものがぽっかりと見えていない。見ようとしないならば賢人だが、見えていないのだ。  百瀬はせっせと「正義」に精を出し、七重はせっせと盗み聞きに精を出す。そして野呂はしかたなく、データ入力に精を出している。足元では黒猫が野呂デスク守衛として任務に忠実に眠っている。平和な昼下がり。  応接室で、百瀬は依頼人と向き合っている。  今日の依頼人は百瀬と背格好が似ている。痩せており、黒ぶちめがねをかけている。依頼人のめがねは四角ばっており、百瀬のより軽そうだ。神経質そうに始終ぺろぺろと上唇を舐めている。歳は百瀬よりはるかに若い。  赤井玉男《あかいたまお》という名を聞いて、百瀬はふとなつかしい気持ちになった。世田谷猫屋敷事件で出合った年寄り猫が、タマオという名だったのだ。推定二十五歳。人間で言えば百歳を超えていた。長い毛が長年とかされることなくダマになっており、右目は黄色く光り輝き、左目は灰色ににごっていた。近づくとシャーッと威嚇し、体をはって屋敷を守ろうとする、家主としての気概を持っていた。  一方、目の前の赤井玉男は目が血走っており、睡眠不足のようだ。不用意に声をかければ、泣き出してしまいそうなひ弱さがにじみ出ている。 「猫の家庭教師をなさっているそうですね」  百瀬はできるだけソフトに話しかける。  すると赤井は自信なさそうに答える。 「ええ、でも、そうとも言えません。ぼくの口からはとても、猫などとは言えません。わたしはその、レオナルドの家庭教師なんです」  赤井はチワワのように震えながらそう言うと、一枚の写真を見せた。 「おお、アビシニアンですね。見事な毛並みだ」  百瀬は写真を手にとった。まぎれもなく猫だ。レオナルドという名だろうが、猫であることに違いない。アビシニアンは希少な品種で、ゴールドの短毛がほっそりとした体の動きに合わせてキラキラと光る。優雅な猫だ。百瀬は弁護士になって十五年、そのほとんどをペット訴訟に費やし、知らず知らず猫の種類には詳しくなった。詳しくなったのは猫の種類だけではない。人間の種類にも詳しくなったような気がする。 「あなたはレオナルドに何を教えるのですか? トイレのしつけとか?」 「それはもう、出会った時にはすでに完璧でした」 「じゃあ、芸でも? 犬と違って難しいでしょう」  赤井は耐えられない、という顔をして、吐き出すように言う。 「不遜《ふそん》です、そんな、レオナルドに芸などと。言葉に気を付けてください」  気弱で神経質そうな赤井は、なにか非常に強いストレスを感じているらしい。しばらくそっとしておくと、赤井はぼそっと言った。 「国語と算数」 「今、なんて?」 「ですから国語と算数を教えているんです。この春からは音楽が加わって」  そこまで聞くと、百瀬は冷静になるために日本茶を飲んだ。七重が運んでくれたが、百瀬がいれたので、そこそこうまい。伊藤ゆかりのお茶ならもっとうまいのだが。  飲みながら、赤井の背後にあるスチール製本棚の上を見た。茶トラは寝ているのか、たらんと垂れたしっぽだけが見えている。おとなしい依頼人に戦意喪失したらしい。  百瀬は自分自身に噛んで含めるように、依頼人の話を復唱した。 「あなたはレオナルドに国語と算数と音楽を教えるよう、飼い主から頼まれたと言うわけですね」 「ですから言葉に気を付けてと言ってるでしょう? 飼い主ではありません。ご両親です。ご両親はうちの大学の学生課に来てこう言ったんです。法学部首席の生徒を家庭教師として雇いたいと。おとうさまは大学の理事で、おかあさまは先代の理事長の孫娘なので、学生課はすぐに生徒を斡旋しました。それで、ぼくに」  ここまで言うと、息切れしたように、赤井は黙った。 「赤井さんは優秀なんですね」  すると、赤井は顔を上げた。頬がぽっと赤い。おそらく彼のプライドを支える核の部分は「学業」なのだろう。 「百瀬先生ほどではありません。あなたの優秀さは寺本《てらもと》教授から聞いています」 「寺本? 寺本はあなたの通う大学で教授をしているのですか?」 「ぼくのゼミの担当教授です。東大時代、あなたと同期で、あなたをライバルと思って勉学に励んだけれど、とうていあなたには敵わなかったと言ってます」  百瀬は大学時代を思い出す。寺本とはよく図書館で顔を合わせた。法解釈でなんどか意見を聞かれたことがあるが、彼がそんなふうに自分を意識しているとは気付かなかった。法曹界《ほうそうかい》に入らず学問の世界に残っていることも初めて知った。 「レオナルドのことだけど」  百瀬は話を戻した。赤井は学生の身だ。できたら三十分以内で話を終了し、五千二百五十円の支払いでとどめてあげたい。 「月謝はどれくらいですか?」 「週二回、二時間ずつ、それで月三十万いただいています」 「ええっ! 三十万!」  週四時間ということは月十六時間。つまり時給は一万八千七百五十円。百瀬法律事務所の相談料より八千二百五十円高い。  赤井はドン、とこぶしでテーブルを叩いた。 「成果が現れないんです!」  そう言いながら赤井はドン、ドン、とテーブルを叩き続ける。  本棚の上の黄色いしっぽがぴくぴくと反応した。不機嫌になりかかっている。依頼人に向かって「シャー」とやられてはたまらない。 「赤井さん、落ち着いて」 「先生、助けて」  赤井は百瀬の手を握りしめた。 「東大で首席だったんでしょ? 天才なんでしょ? 百瀬先生ならできます! 絶対できます!」 「赤井さん、依頼内容を明確に」 「レオナルドに音楽を教えてやってください! 今月中に春の小川を歌えるようにならないと、ぼく、ぼく、クビになってしまいます!」  赤井はワーと泣き崩れた。 「泣いてますよ」  七重はぴょんぴょん飛び跳ねるように、野呂のデスクに近づき、ささやいた。人の不幸についうきうきしてしまう。  野呂は時計を見て、本日の収入欄の数字を5250から10500に書き換えた。予想がはずれ、面談は四十分を越えている。ひょっとすると、正式な依頼に発展するかもしれない。するとこんなはした金はどうでもよくて、着手金がいくら入るかだ。 「ぼそぼそしゃべる人で、よく聴き取れないんですよ」  七重は四十分間壁に耳を当てており、肩が凝ったらしい。盗み聞きをやめ、おとなしく猫トイレの掃除を始めた。  事務所の呼び鈴が鳴った。  七重は反射的に走って行き、スコップを片手に持ったまま、ドアを開けた。その様子を見て野呂は、「次の事務員は接客スキルの高い人間を選ぼう」と固く決意する。  訪問者は白衣を着ている。 「まこと先生!」  七重はうれしそうだ。 「猫弁先生は?」  白衣の訪問者は右手に半紙を持っていて、七重に渡した。墨文字で『がんばる猫弁』と書いてある。ドアに貼ってあったのだ。またいたずらである。 「依頼人と面談中です」  七重が答える間に、訪問者は遠慮なく入って来る。髪をひっつめており、大股で歩くが、鼻筋が通ったかなりの美人だ。背は高く、小麦色の肌が白衣に映え、大きな瞳でにらむように事務所を見回す。事務所のあちこちから猫が顔を出す。 「あ、ポール・アンカが顔を出した!」  七重が叫ぶ。スマートな体のシャム猫が本棚の上から顔を出し、すぐに引っ込んだ。 「あれが新入りのシャムか」  訪問者は笑顔を見せた。真っ白な歯が行儀良く並んで、育ちの良さを証明している。  まこと動物病院の院長である柳まことは、都内で訪問医療を行う獣医師として、ペット業界では有名人である。患者側に立った診療形態なのだが、田舎ではともかく、ここは都会だ。動物病院の数は充実している。既存の獣医にとって、まことの存在は「テリトリーの侵害」であり、脅威だ。  おのずと敵が多くなり、嫌がらせも受ける。それに対抗するため、まことは年々男勝りに拍車がかかってきた。  まことは人慣れした猫から順番に診てゆく。こうして百瀬法律事務所の猫は定期的にまことの検診を受けている。  七重は宝塚のファンで、かっこいい女が好きだ。まことが訪問するとそばを離れず、いかにも日々猫の世話をかいがいしくやってます、とでも言うように、猫の現況を伝え、動物愛にあふれた人間であることをアピールする。 「まこと先生、里親の件はいかがでしょうか」 「診察室と待合室に写真を貼ってあるんだが、なかなか貰い手が見つからない。おたくの猫はどれもルックス的に見劣りするというか……」 「飼い主に似るっていいますからね。ったく、うちのセンセ、人の好さの半分でいいから顔が良ければねえ」  まことは牛柄のモーツァルトの腹を押さえ、口に指を入れ、歯の状態を確認する。  すると足元にさきほどのシャム猫が寄って来て座った。 「あっ」  七重が大声を上げると、まことが「シッ」と制する。  七重はドキッ、とする。シッと言われて胸が高鳴るなんて、自分はレズビアンではないかと心配になる。  まことはモーツァルトの診察を終えると、シャム猫をそっと抱き上げた。 「この猫はどういう経緯で?」 「医療ミスで飼い主が獣医を訴えたんですよ」 「医療ミス?」 「飼い主が言うには、食べ物を与え過ぎたら太ってきたので、獣医に脂肪吸引手術を依頼したら、縫い合わせたあとがハゲになって」  まことはそっとシャム猫の腹を診る。十円玉くらいのハゲがある。 「たしかに腕が悪い獣医だな。そもそも栄養指導もせずに飼い主の要求のまま脂肪吸引するなんて、無茶苦茶だ。へたしたら死ぬぞ」 「うちの先生もそんなふうにおっしゃって、医療倫理? がどうのこうのと、それでまあ、勝訴です。飼い主は喜んでましたよ。ガッツポーズしてました。手術代は返還されるし、慰謝料もゲットしてですね、うれしいのはわかるんですけど、ガッツポーズはなんだかちょっと、奇妙な気がしましたよ。案の定です、ことが済んだら、ハゲた猫は要らない、って」  まことはシャムの顎をなでながら、器用に指を使って歯の状態を診る。 「まだ若い猫だ。そんな飼い主、今のうち縁を切っておいて幸いだ」 「そうそのとおり!」  七重はうっとりとまことの言葉に相槌を打つ。  野呂は思い出す。まことと全く同じせりふを百瀬が言った時の七重の反応はこうだ。 「幸いってなんです! こんな若ハゲまで面倒みなきゃいけないんですか?」  青筋たてていきり立ち、スコップを振り回した。その様子にポール・アンカは怖じ気づき、七重がいる間、本棚の上から降りようとせず、えさも食べようとしない。おかげで全体にシャムらしいほっそりとした体を取り戻してきていた。  まことは「この猫なら早々に貰い手が見つかる」と請け合った。 「おたくの先生については、責任を感じているんだ。うちが依頼した猫屋敷訴訟がマスコミにとり上げられて、猫専門みたいな看板しょわせちゃったから」  まことは医者の一族に生まれた。みな人間相手の医者である。ひとりっ子のまことが獣医になると言った時の両親のリアクションは想定の範囲内で、勘当《かんどう》同然に家を出て夢を叶えた。その矢先に直面した世田谷猫屋敷事件。悲しい猫たちの行く末を案じて、親に下げたくない頭を下げ、一流の法律事務所に弁護を依頼したが、そのとばっちりを受けたのが、新人弁護士の百瀬だ。  訴訟は丸二年かかり、全国的に知られることとなった。悲劇で始まった物語は、全方向にハッピーエンドとなった。ただひとつ、百瀬の行く末を除いて。  良い結果を出したがために、百瀬の立場はおかしくなった。良い結果を出し過ぎたのだ。  ひとりの有能な弁護士の将来を決定してしまったと思うと、まことは胸が痛い。百瀬が後に独立したと聞いて、こうして猫の健康管理を請け負っている。 「近頃では堂々、猫弁先生って依頼の電話がありますからねぇ」  七重は相槌を打つつもりがまことの罪悪感を逆なでする。さらに「いまだに嫁の来てもなく、猫ばかり増えてしまって」と、まことの表情をちらちらと窺う。  歳の頃はちょうどいい。猫の里親探しもいいが、百瀬ごと引き受けてくれないかしらと七重は思う。百瀬とまことが結婚すれば、自分は結婚式に呼ばれる。七重はイベントが大好きだ。しまったままの留袖《とめそで》を虫干しも兼ねて着てみたい。  応接室のドアが開き、百瀬と赤井が出て来た。 「まこと先生、いつも往診すみません」  百瀬が会釈をすると、ちょうどまことはシャム猫に注射針を刺したところで、採血しながら軽く頷いた。  新参者の猫は採血してウイルスチェックをし、それから里親募集をする流れになっている。現在事務所にいる猫は十一匹だが、常にここにいる猫は、まこと動物病院を通じて里親を募集しており、数は増減している。増減しながら少しずつ増えているのが現状だ。  赤井玉男は百瀬に「先生、お世話になりました」と頭を下げた。どうやら相談で片がついたようだ。野呂はやれやれまた着手金無しだとためいきをつく。  百瀬は笑顔で「じゃあ、そのようにね」と手を振った。  赤井も笑顔を返し、はればれとした顔で出て行った。  ドアは閉まり、野呂はあわてた。支払いが済んでいない。 「一時間十分です。十分まけたとしても、相談料は一万五百円になります」  野呂が言うと、百瀬ははれやかな顔で「法律相談じゃなかったんです」と答える。 「じゃあなんの相談ですか?」野呂は食い下がる。  七重はしたり顔で口をはさむ。 「今度は猫の家庭教師、引き受けるんですか?」  百瀬は応接室の防音設備をなんとかしないとと思いながら、顔を横に振る。 「彼が今のバイトをやめ、他のバイトに切り替えた場合、生活が維持できるかを計算してみました。彼は有名私大の法学部で成績も優秀なので、予備校講師や人間の家庭教師など比較的時給の高いバイトが見込めます。今のバイトはたしかに破格の高収入ですが、やめても学業が続けられると試算できました」 「じゃあ彼、猫の家庭教師をやめるんですね?」七重は尋ねる。  すると百瀬はまたも顔を横に振る。 「やめる選択肢を提示しましたが、彼はそれを選びませんでした。彼は気付いたのです。自分がその猫を愛していることを。そして飼い主の、猫への愛の形が間違っていることに気付き、それを正すべきだと考えました。愛する猫のために、勇気を持って飼い主に対峙し、猫に猫らしい生活をさせるよう、説得すると言いました」 「正義に目覚めたんですね」  野呂はためいきをつく。正義と経済は相反するものだと思いながら、本日の収入欄の10500を削除した。      ○  ふたりは河川敷に寝転がって夜空を見ていた。 「星って減るんやな」田村が言った。しゃべると腹の脂肪がたぷたぷと揺れる。すると傷に貼ったガムテープが引きつり、いやな痛みが走る。しかし痛みよりも飢餓《きが》感のほうが重要だ。脂肪を揺らしながら、空へ向かってつぶやく。 「腹も減るけど星も減る。金も減る。借金だけなんで増えるんやろ」 「星は減ってへん。見えてないだけや」  隣に寝ている木村が言う。すじばった両手で作る枕は、後ろ頭にとってそう親切ではない。  大阪では風呂無しの六畳間にふたりで寝起きしていた。せめて一人一部屋借りたい。風呂はなくともそれくらいの贅沢《ぜいたく》はしたいと思っていたが、枕はふたりぶんあった。幸福は失って初めて見えてくる。汗臭い枕、煎餅布団、アルミのやかん、ひびの入った茶碗。カビ臭いあの部屋のなにもかもが今では妙に懐かしい。  感慨に耽《ふけ》る木村の横で、田村はしつこく星にこだわる。 「そうなん? 星、ちゃんとあるん? 見えてへんけどあるん?」 「そうや。東京は見える星が少ない言うで」  田村は感心したように木村の横顔を見る。 「木村はえらい。博識ゆうやっちゃな。小学校でもちゃーんと授業聞いとったもん」 「お前は寝てるか立ってるかやったな」 「あの担任、そや、ヤマネや。あいつ、すぐに廊下で立ってろ言うんやけど、あほを授業から閉め出したらもっとあほになってしまうやん」 「田村をこんなあほにしたんはヤマネやな」 「そや。ヤマネや。なあ、ほんまに星はぎょうさんあるんやな? ほな、見えてない星を想像してみよか」 「そや、想像しい」  田村は無言になった。想像力を総動員して星を見るつもりだ。  木村は口に残るドーナツの甘みを惜しみながら、打つ手はないものかと考えた。  昼間はとにかく霊柩車を走らせた。走っている限り、そう目立たない。停車するのが問題なのだ。リムジンなので、コイン駐車場は狭すぎて入れない。  走っているうちに、ニニンガシがどーんと視界に現れた。前方のビルの上のでっかい看板に、ニニンガシのアップがドーン、だ。 「あいつら、こないビッグになってしもたんや」  田村は素直に口に出したが、木村は苦しすぎて口をつぐんだ。  キムラタムラが最終選考に残ったお笑いコンテストのチャンピオン、ニニンガシ。木村たちよりずっと若く、なんと二十歳、しかも初出場で優勝杯をかっさらった。  大学生コンビで、顔もしゅっと、イケメンだ。彼らの芸は、みなの意表をつくものだった。一人が二重の人格を持っており、声色も顔つきも変えて掛け合いをする。コンビだが、実質四人グループの芸なのだ。だから2×2で、ニニンガシというネーミング。四人のうちひとりがひきこもりになり、すると途端にお笑いトリオとなる。  画期的な発想だ。キムラタムラが演じている間は携帯電話をいじりながらあくびをしていた審査員が、度肝《どぎも》を抜かれた表情で、最後は会場が爆笑の渦に包まれた。  木村がくやしいのは、自分も笑ったひとりだったのだ。  その後ニニンガシの活躍は目覚ましく、あっという間に全国区に躍り出た。木村は笑った自分に腹を立て、彼らの活躍を見ないよう避けてきた。  ああ、それなのに。こんなところでこいつらに出くわすなんて。 「赤やで!」  田村の叫びにハッとして、ブレーキを踏んだ。横断歩道を若干踏み越えてしまった。 「なんか、指差しとるで」  田村は突き出た腹で可能な限り前のめりになって、看板をあおぎ見ている。 「ほら、見てみい。ふたりとも、左を指差しとる。なんでやろ」  木村は無視できず、ついに看板を見た。ニニンガシはふたりそろって右手をまっすぐに右上方に向けている。こちらから見ると左だ。そろいの黄色いTシャツに『未来へ』と白い文字がある。なにが未来や。木村は舌打ちし、毒づいた。 「お笑いはしゃべってなんぼや。あないポスター一枚でなにができるんや」 「指差すだけでなんぼもろたんやろ?」  田村の言葉に木村は出かかった悪態を飲み込んだ。いくらもらえるのか見当がつかない。自分はこんなに苦労して、取り分は四十万だ。あいつらは指を差して笑うだけでいくら稼ぐのだろう? 「青やで」  田村の言葉にはっとして、木村はアクセルを踏み、ハンドルをぐっと右へ切った。  パー、パー、ブー、ブー、ビー  クラクションを浴びながら、霊柩車は無茶な右折をし、フルスピードで突っ走る。罵声《ばせい》は無い。さすがに霊柩車に「ばかやろう」は言いにくいのだろう。 「あぶないやん。どないしてん」  田村は汗を拭いながら木村を見る。  木村は猫背のままアクセルを踏み続ける。血走った目がこぼれ落ちそうだ。 「あいつらが左言うたら右行くんや」 「そないゆうたかて、左には未来があるそうやで」 「あいつらが左ならおいらは右なんや」 「キムラタムラやめてサザンガクにせえへん?」 「あいつらとは違うんや!」  ニニンガシの看板は街のあらゆる場所にあり、そのたびにニニンガシが指す方向とは逆へ進んだ。あっという間に夜になったが、ライトを点けるのも忘れるくらい、東京の街は明るい。  道の左側に看板が見えると、ニニンガシが後ろを差すことになるのでまっすぐに走り、右側にある場合は、無謀にもUターンした。もちろん、正面で出くわしたら右だ。知らぬ東京のどこをどう走ったか見当もつかないが、だんだんと住宅街になってきて、その果てにたどり着いたのがこの河川敷である。  木村は寝転んだ体をねじり、土手の上を見上げた。堂々、宮型霊柩車が駐車している。ひとけがなく、闇夜にまぎれているが、黒々としたシルエットは西洋の悪魔の城のようなおどろおどろしさがある。こうして見上げると、うんざりするほどやっかいなお荷物だ。このまま乗り捨てて逃走し、すべてを無かったことにしたい衝動にかられるが、借金返済の唯一の資本でもある。  どうにかして死体を調達し、柩に入れ、誤魔化《ごまか》すしかない。そのためには仏の年齢と性別を知る必要がある。 「想像できへん。星なんか、見えへん。おいらに想像力があったら、あんな借金こさえたりせえへんもん」  田村はぐずぐずと泣き出した。ドーナツの栄養が切れて、落ち着かなくなってきたのだろう。 「そこのおにいさん」  闇夜に細い糸のような声が響いた。 「出た!」木村と田村は同時に土手の上を見た。悪魔の城がうらめしげにそびえている。しかしそこに亡霊は見えない。 「見えてへんだけで、おるんかな」  田村は想像力を総動員するのをやめた。そんなことをして亡霊がほんとうに見えてしまったらやばい。  木村は田村より勇敢だった。細い手足で猿のように土手を登り、おそるおそる霊柩車を覗いた。すると窓にげっそりとした青白い顔が見える。  あまりの恐ろしさに声が出ない。木村の心臓はどどんどどんと波打つ。逃げることもできずにもう一度窓を見ると、それは自分の顔である。 「なんや」安心したら声が出た。  それにしても死体のような顔だ。ずいぶんとやつれてしまった。 「おーい、木村、こっちこっち」  田村の明るい声が聞こえる。河川敷を見下ろすと、体の大きな田村の横に、小柄な誰かがいる。 「生きてるばあさん」田村は叫んだ。  老婆は橋の下に住居を持っていた。  いつから住んでいるのか、段ボールと木材を器用に使い、小柄な老婆ひとりが快適に暮らせる住処《すみか》がこしらえてある。木村と田村はその前の、老婆が言うところの「庭」で歓待された。  老婆は、アルプスの岩清水と書かれたペットボトルに入った水と、たっぷりの焼き芋を気前良くふるまった。こうばしく、甘く、ドーナツよりうまいと木村は思う。  たらふく食べ、ふたりの心が落ち着く頃に老婆が言った。 「あんたら、靴をどうにかしたほうがいい」  木村と田村は自分たちの靴を見た。数年前ミナミの商店街で買ったスニーカーである。遊園地での営業用にそろいで買ったのだ。ナイキのバッタもので、MIKEとロゴが入っている。 「ぐずぐずで、サイズが合ってない。靴底のゴムの品質も悪すぎる」  言いながら老婆は小枝の先で焼き芋をつつくように、靴をつついた。 「靴だけは金を惜しむな」 「そやかて、おいらたちの足元なんて、誰も見いひん」田村は言った。 「靴が足に合わんと、人生がしっかりせん。なにもバカ高い靴を買えと言うんじゃない。自分に合った靴をとことん探せと言うとるんじゃ。こんど少し金が入ったら、食う前にまず靴を履き替えろ」 「わかった」  田村は面倒くさそうに頷く。食うより優先されることなどあるものかと思う。しかし人生の大先輩に口で勝とうとしたって無理だ。  田村は老婆の足元を見た。薄暗いのでよく見えないが、柔らかい感じの古くさい靴だ。元は赤かったのだろう、今は赤黒い。説教するくらいなら、自分こそ買い替えたらどうかしらと思う。  それより、饅頭《まんじゅう》だ。老婆の頭の上にはこれでもかときつくひっつめた白い髪が器用にまるっとまとめてあり、それが田村には葬式饅頭に見えてしかたない。  老婆は川を見ながらぽつりと言った。 「人生うまくいかなくなると、人はみな川を見たくなる」 「なんやて?」 「ここに来る人間は、うれいごとがある」 「うれいごとてなんや?」  老婆は優しく微笑んで、小枝で川を指し示す。  田村は川を見た。川は流れている。川だから当然だ。川を見に来たんだっけ?  ニニンガシに逆らったらここにたどり着いただけだ。もうおなかがいっぱいで、気持ちがとろとろして、なにか言うのも面倒だ。  老婆は話し続ける。 「その川はどっちからどっちへ流れている?」 「右から左や」 「明日はどうだと思う?」 「あほか。明日かてあさってかて右から左や」 「川はいい。迷いがない。こっちへ流れると決めたら頑として方向を変えない。何年も何十年も頑固なものだ」  田村は想像してみた。黒光りする川の中に、脂ののった魚が泳いでないか。不思議と想像できた。星は想像できないが、食べ物は想像できる。 「川って見るもんやな」田村は元気づいて言った。 「だろう? しっかり見て、今後のことを決めることだ」  木村は会話に参加しない。さきほどから熱心に新聞紙に見入っている。焼き芋を包んでいた新聞紙だ。 「ニニンガシはなんで芸人になったんやろ?」  うまそうな魚を想像して眠気が覚めた田村は老婆に尋ねる。 「ニニンガシとはなんだ?」 「あいつら大学行っとるんやで。会社員になれるやん。わざわざ芸人にならんでも」 「好きだから、その道を選んだんだろう? 自然なことだ。お前さんだって好きな仕事を選んだんじゃないのか?」  田村は自分に聞いてみた。自分はお笑いが好きなのだろうか? 振り返っても、さあ? って感じだ。選んだ覚えは無い。 「やせたお兄さん、なにか気になる記事でもあったんかい」  そう聞かれて、木村は新聞紙を老婆に見せる。 「ここ、ここんとこ紙が破れとるけど、こう書いてある。ラシューズ会長大河内三千代氏葬儀は午後一時より東園寺にて。喪主は社長の大河内進氏。なあ、葬式て新聞に載るんやな。このラシューズって何や。記事の上の部分、捨ててもた?」  老婆はにたりと笑う。 「シンデレラシューズという会社なら知ってるぞ」 「それ何の会社や」 「靴を作る会社だ。有名だが、知らんのか?」  木村と田村は見つめ合い、「知らん」と答えた。 「ふたりはデパートに行かんのか」 「うんざりするほど行くで」木村と田村は同時に答える。 「どのデパートにも必ず置いてある靴だぞ」 「デパートは屋上しか行かんもん」  田村はふくれっつらをする。 「そのシンデレラって会社の会長って、年寄り? じいさん? ばあさん?」  木村が尋ねると、老婆は新聞記事を指差して推理する。 「ほれここ、仏さんと喪主は苗字が同じだ。つまり、親族で経営している会社だろう」  うんうん、と木村は真剣だ。 「社長より会長のほうがふつうは年上だ」老婆が言うと、木村は驚く。 「え? そうなん?」  老婆はにやりと笑ってゆっくりと言い聞かせる。 「会社というのは、そういうものだ。おそらく大河内進より大河内三千代は年上だ」 「大河内はおっさんや。声がおっさんやった。三千代は姉貴か、かあさんやな」 「なぜそう決めつける? 年上の女房かもしれんぞ」老婆はまぜかえす。  すると田村が言った。 「ちゃうで。あいつ、泣いとらんかったもん。おいら挨拶しとるおっちゃん見たんや。泣いとるふりしとったけど、うそ泣きや。そんなに悲しそうやなかったで。嫁はん死んだらふつう、絶望の淵やろ。おいらやったら腰砕けてるわ。あいつはもっとドライやった」  木村は田村を見直した。だてに太っているわけではない、見るとこ見とると感心した。 「ふたりは葬儀に出たのか?」  老婆は教師のような厳格さで尋ねる。  木村と田村はばつの悪そうな顔をして黙り込む。  老婆はさらに追及する。 「こんな記事、どうして気にする? 大阪から来たふたりに関係ないことじゃないか」  木村は老婆の言葉に身構える。 「なんで大阪から来たわかるねん」  すると田村は笑い出す。 「木村、おいらたち、こてこての大阪弁やん」 「あ、そか。そやった」  木村はほっとして笑い出す。あはは、あほやな、あはは、あほやあほやとなごやかに笑うふたりを見て、老婆は興味深そうな顔をする。  ふたりは笑い出すと、何を見てもおかしくなり、田村のでっぱらはおかしいだの、木村のやせた顔はしゃれこうべだの、小学生のような会話を応酬し合っては笑い続ける。しまいにはひいひいと息切れして、草の上にごろんと横になった。  田村は腹の奥がずきんとして、顔をしかめる。 「ばあさん、東京の空は星が少ないけど、寂しくないんか」  老婆は柔らかい顔で地面を見つめていたが、やがてぽつりと言った。 「大河内三千代は八十二歳で、社長の母親だと、記事の切れ端に書いてあった」  木村は驚いて上半身を起こす。 「その記事、どこや」 「芋を焼く時に、焼けてしまった」  そう言ったあと、老婆は住処に入ってしまった。  木村と田村は見つめ合った。 「仏さんは、年寄りやな」  木村が言い、田村は頷く。 「つまり、ばあさんてことや」  木村は老婆のいる段ボールハウスを見つめながら「ばあさんの死体を調達せんとあかん」と低い声でつぶやく。 「まさか、木村、おまえ」  木村の目は充血している。  田村はぞっとした。木村の見慣れたかぎ鼻が、昔絵本で見た魔女とそっくりだと気付いたのだ。  田村は川を見た。一生懸命想像してみたけれど、もう魚は見えなかった。      ○  百瀬にはいろいろと片付けねばならないことがあった。  五軒先の家が猫を飼いはじめ、アレルギーが心配で布団を干せなくなり、布団乾燥機を購入したので、代金を五軒先の家に要求したい! と訴える主婦や、チンチラゴールデンをあくまでもペット不可の高層マンションで飼い続けたいマダムや、家庭教師に入った家で雇い主と口論し、血統書付きのアビシニアンを誘拐して逃げたエリート大学生の人生相談などなど、どこからどこまでが弁護士としての職務なのかわからないが、とにかく引き受けて、共に考え、解決の道を探したい。  百瀬太郎の人生は、落としどころを探す迷路のような日々だ。  霊柩車ジャックの件は、犯人からの連絡が無く、次の動きが発生せず、このまま「消えた霊柩車未解決事件」として、依頼そのものが消えてしまうかもしれない。「人に知られたくない。ひっそりと犯人とやりとりして終わらせたい」と当の依頼人が言うので、こちらはただ待っているしかない。千五百四十万で霊柩車と柩がもどれば、三百万を百瀬に払うと大河内は言った。成功報酬だ。  経理担当の野呂は「着手金無しなんて、ありえない」と怒り、資料が入った段ボールを蹴飛ばした。  野呂には「社葬でトラブルがあった」としか伝えていない。知ったら段ボールを蹴飛ばすどころか、猫で蹴鞠《けまり》をするほどに憤慨するだろう。  百瀬はこの件からはすきあらば逃げ出したいと思っている。「これを聞いたからには断れませんよ」と前置きをして大河内が説明した「これ」の部分に、全く同情の余地がなかったからだ。  そもそもが嘘くさい。大河内は話すたびにいちいち秘書の顔を見て、まるで芸を仕込まれた犬のように合図を待ち、秘書が頷くと、話を進める。事実ならば伺いを立てる必要はない。口裏を合わせたに違いない。決定権を握っているご主人様は秘書で、大河内は言われた通りに作り話をなぞるしつけのよい犬なのだ。 「せめて口止め料くらい、貰ったらどうですか」野呂は嫌味を言う。ほうっておくと損ばかりしそうなボスにいらついている。  いろいろと片付けなければならないことがある上に、棚上げ案件もある百瀬が、睡眠時間を割いてでも断れないのは「良いお相手が見つかりました」という、ドスのきいた声である。夜の八時に事務所を出て、新宿駅から南に向かい、ビルの七階に到着した。  睡眠不足の目に、今夜のナイス結婚相談所の蛍光灯は、いっそうまぶしい。  七番室に向かう百瀬は、六番室を通る時に、そのドアがかすかに開いているのに気付いた。鈴のような声を思い出す。すると好奇心が抑えられなくなった。あの美しい声の女性を一目見てみたい。気付かれたら「部屋を間違えました」と言えばいい。姑息な作戦をたて、そっと六番室のドアを開けてみた。  誰もいない。照明は点いているが、もう終了してしまったらしい。六番室は七番室と同じレイアウトで、白い壁、白い天井、白く細長いテーブルであちらとこちらが仕切られており、白いパソコンが一台置かれてある。テーブルの上に、ミッキーマウスの顔が付いた赤いボールペンがある。美声の主の忘れ物だろうか。  ひとけのない部屋に立っていると、奥の、職員が出入りするドアが開いた。 「電気つけっぱじゃん」と言いながら入って来たのは大福亜子で、一瞬にして部屋は真っ暗になった。いつもの数倍はかわいらしい声だ。暗闇の中で百瀬が息を止めていると、また明るくなった。 「百瀬さん、ここ、部屋が違いますよ」亜子はドスをきかせて言った。 「ここは六番です、隣へどうぞ」  そう言うと、亜子は再び照明を消して隣の部屋へ移動した。 「どうですか? この方」  七番室で亜子はパソコンのモニターを百瀬に見せた。  画面いっぱいにおたふく顔の女性の顔が映っている。美人ではないが、人がよさそうな可能性を秘めている。 「よろしくお願いします」百瀬は言った。  亜子は腕を組み、ためいきをつく。 「今、顔しか見ていませんよね。彼女の年齢も職業も体重も知りませんよね。名前も言ってませんよね。それでもいいんですか」 「ええ、いいんです。まずお会いしてみないことには」 「少しくらいこだわりってないんですか?」 「こだわりと言いますと?」 「痩せている人がいいとか、若い人がいいとか」 「はあ」 「この人、名前が喪黒福子《もぐろふくこ》だったらどうします?」 「ああ、『笑ゥせぇるすまん』、わたしも読んでましたよ。喪黒、いいですねえ」  笑顔の百瀬に、亜子はちっ、と舌打ちをする。  百瀬は驚いた。この人でいいと了承したのに、舌打ちされるなんて心外だ。  このとき百瀬は気付いた。自分は舌打ちをする女性は嫌かもしれない。そういうのをこだわりと言うのだろう。こだわりのひとつとしてこの人に伝えたほうがいいのだろうか。考えているうちに、亜子が話を進めた。 「こちらが紹介する人にノーと言ったこと、ありませんよね?」 「そうでしたっけ」 「百瀬さん、好き嫌いないんですか?」  百瀬はおとなしく頷いた。舌打ちの件は追って説明するとして、今は単純に質問に答えておこう。 「はい、もう、どなたでも」 「誰でもいい? そんないい加減な!」  すると百瀬は不思議そうな顔をした。 「いい加減ですか? わたしが?」 「いい加減ですよ。生涯の伴侶を誰でもいいだなんて」  百瀬はこれまた心外だった。自分が結婚を望んでいる気持ちは、けっしていい加減と称されるものではない。ここは正確に自分の気持ちを伝えておこうと思う。 「わたしは真剣です。わたしでいいと言ってくださる女性がいたら、その人を一生大切にしたいんです。それがいい加減ですか?」  亜子はうーむとうなって腕を組み直した。 「女って、選ばれたいものなんですよ。君じゃなきゃいやだ、みたいな熱情というか、ノリが欲しいんです」  百瀬はわからないというふうに、ぼんやり上を見つめた。  亜子はここをしっかり説明しておこうと決意する。 「百瀬さん、『卒業』って映画知ってます?」 「ええ、ダスティン・ホフマンの」 「彼は彼女にふられても執着しますよね。彼女の結婚式に行き、奪い返すくらいの、あの熱情が、女にはたまらないんです」 「大福さん、ちゃんとラストまで見てます?」 「もちろんです」 「彼は結婚式から花嫁を奪って、走りに走ってバスに乗って、最後にふたり、後ろの席に並んで、ぽっかーんと、しらけた顔してました。あのあとふたりはうまくいかないと思いますよ。つい、派手なことやっちゃったけど、どうしよう? って困惑が、ありありとふたりの間にありました」 「そうでした?」 「ええ、第一、わたしだったら彼女の母親と関係などもちません」  亜子は黙った。言われてみれば、たしかにそうだ。あの映画は亜子の心の中で、ロマンチック部門の引き出しに入っていたが、すぐにでもそこから引っ張り出して、浮気男部門の引き出しに入れてしまえと思う。  いまいましい。男女関係のプロである自分が、彼女いない歴三十九年の男に、男女の機微について言い負かされた形になり、不本意だ。頭は良いが女に関してはとことんうぶでぼんくらだ。そう思っていたが、あなどれない。一見ダサい丸めがねは、ものごとのうわっつらを貫通し、真理を見通す力があるとしたら、自分の魂まで見透かされているような気がして、ぞっとする。  亜子は動揺して、なにを話していたのかわからなくなった。なんで『卒業』の話になったんだっけ。  すると百瀬が話を戻した。 「わたしは選ぶってことが、苦手なんですよ」 「百瀬さん、日替わり定食頼むタイプ?」 「ええ、まさにそうです」 「でも弁護士という職業は選んだでしょう?」 「わたしを育ててくれた人がこの道を行きなさいと、勧めてくれたので」 「育ててくれた? そういえば」  亜子はキーボードを叩き、プロフィールを確認した。 「おかあさまは名前がありますが、おとうさまは」 「父はいません。生物学的にはどこかにいるのでしょうが、戸籍にありません」 「おかあさまは」 「七歳のときに別れたきりです」 「七歳までアメリカで育ったとなってますね」 「戸籍によるとわたしは日本で生まれています。記憶はアメリカからしかありません。アメリカで日本人の母と暮らしていました。わたしが七歳になった日に、小学校からは日本で学びなさいと言って、母はわたしを日本に連れて来て、施設に入れたんです」 「え?」 「さよならと言ったので、迎えに来ない事はなんとなくわかっていました」 「それって、捨てられたってこと?」 「わたしはそう思っていません。七歳まで母はわたしを育ててくれましたし、おそらくそれ以降は自分といないことが息子の幸せだと感じて、最良の方法を選択したのだと思います」 「どうしてそう思えるんですか」 「母はわたしを愛していたからです。ゆるぎない愛でした。それとこれ」  百瀬は黒ぶちの丸めがねをそっとさわった。 「母の父親の形見だそうです。とても大事なものだからとわたしにくれました」  亜子はじっと百瀬を見た。七歳の男の子が、こんな古くさいおじいさんの丸めがねをひとつ渡されて、母親の手で施設に送り込まれた情景を目に浮かべると、ふいに胸のあたりからこみあげてくるものがあり、咳《せ》き込んで誤魔化した。 「施設はどうでした?」 「不便はなにひとつありませんでした」  亜子はそれ以上施設について聞く事を躊躇《ちゅうちょ》した。 「弁護士になれたんですから、よかったですよね」と言ってみた。  百瀬は明るく頷いた。 「弁護士になれば、いつかめぐりめぐって、おかあさんを助けることができるよと、施設の理事長が言ったので、弁護士になりました」 「どういう意味でしょう?」  亜子の問いに、百瀬は首をひねった。 「さあ。前頭葉に空気を送っても、わからないんですよ」 「ぜ、前頭葉がなんですって?」 「こうして上を見ると、脳がうしろに偏って、前頭葉と頭蓋骨にすきまができ、そこからいろんな発想が浮かぶと、母は言ったんです。別れる時、そう教えてくれました」  そう言って百瀬は天井を見上げた。  亜子もつられて天井を見た。  七番室の天井は、しばらくよっつの目で見つめられ続けた。  亜子の目には、母と別れた少年が、ひとりぽつんといつまでも、青空を見上げている光景がはっきりと見えた。 「わかりました」と亜子は言い、顎を引いた。 「百瀬さんは家庭が欲しいんですね。そのために結婚するんですね」  百瀬も顎を引き、亜子を見つめた。 「でしょう? こうするといろいろ、わかってくるんです」 「おかあさん、いいこと教えてくれましたね」 「ええ! 母親ってすごいです」  百瀬は胸をそらせた。母を誉められて、うれしかった。今まで母を誉めてくれた人はいなかったので、とてもうれしかった。母を否定されることは自分を否定されるよりも辛いものだ。  百瀬は自分の結婚をこの大福亜子に託そう、全権一任しようと、改めて決意する。 「さっきの方とのお見合い、よろしくお願いします」  百瀬は頭を下げた。  百瀬は帰り道、例のガード下を通ってみた。前回の見合いの帰りに通った道だ。あいかわらず道は不潔で、腐った野菜の匂いがする。  靴磨きの老婆はいない。あれから何度かここへ来たが、会えない。百瀬は老婆に話したいことがあるが、どうやって探せばよいのか見当がつかない。  ガード下を通り過ぎると、大通りに出た。夜の十時を過ぎても新宿は眠らない。  歩いていると、喉が渇いた。  吸い寄せられるように自動販売機に近づき、財布から小銭を取り出すと、ずらりと並んだサンプルが目に入った。脳裏に大福亜子の言葉が甦る。 「女って選ばれたいものなんですよ」  百瀬は上下二列に並んだサンプルをまず上段の左から右に、下段は右から左に、舐めるように見つめ、えいっと、ミルク入り缶珈琲を選んでボタンを押した。ガタガタッと音がして、重たい缶が落ちる。すると「にゃあ」と、か細い声がした。たしかにした。驚いてしゃがみ、取り出し口を覗く。ふたつの小さな目が光っている。  子猫のようだ。幸い缶は離れた場所に落ちており、当たらなかった。子猫に缶が直撃すれば、大けがを負ったに違いない。 「こんなところに捨てるなんて」  小動物を虐待しても刑法では器物損壊にしかならない。まして持ち主の定かでない子猫なら、軽犯罪にも当たらない。自分がよりどころとする法律というものが万能ではないことを百瀬は痛感する。  手をそっと差し込み、やわらかな体を取り出す。片方のてのひらに載ってしまえるくらいに小さく、浮いてしまいそうに軽く、卵から孵《かえ》ったばかりのひよこのように、ふたしかな生き物だ。毛は全体に黒っぽいが、ところどころ微妙な色がまざっており、一般にサビ猫と呼ばれる雑種だ。  百瀬は以前からサビ猫を「神の手抜き」と呼んでいる。形はほかの日本猫と大差はないが、色と柄はめちゃくちゃで、ぐちゃぐちゃで、方向性が無く、制作意図がつかめない。神はサビ猫を創るとき、ほかの仕事に気をとられていたか、疲れ切っていたかで、気まぐれにデザインしたのだろう。あるいは弟子に仕事を任せたのかもしれない。弟子が妙に作家性を発揮し、前衛的なデザインにしたのかもしれない。  百瀬は拾った猫を抱えて立ち上がり、歩き始めた。てのひらの上のそれは、わたぼこりのようにおとなしい。引力でこぼれ落ちることはないが、風にもっていかれそうな不安があり、みぞおちに押し付けるようにして、慎重に歩いた。  百瀬はそのぬくもりに気をとられ、缶珈琲の存在はとうに忘れていた。  夜の街をひたひたと歩くうちに「こいつは捨てられたんじゃない」と思えて来た。こいつのためにはここが一番いいと、誰かが愛情をもってあそこに入れたのだ。そして自分の手に引き継がれたのだ。そういう運命なのだと思えて来た。      ○  早朝、青い作業着の清掃員がビルの内階段を使って地下駐車場に降りて行く。  ここはオフィスビルである。まだ始業時間前で、来客は無い。  受付係の管理人はたった今、小さな窓ガラスのむこうの管理室にあくびしながら入ったばかりだ。  社専用の駐車場なので、滅多に汚れない。ゴミは車の屋根にくっついてきた枯れ葉や、下車したときにうっかり落ちる紙くずくらいなものだ。それでも律儀《りちぎ》な清掃員は、毎朝、始業前にひととおりチェックし、細かいゴミを拾って歩く。万が一にも釘や画鋲《がびょう》でもあったら、タイヤがパンクしてしまう。駐車場は会社の顔だと思い、しっかりチェックする。それがいつもの作業なのだけれど、今朝の清掃員は、いつもと違う。かなしばりにあったように、体が動かない。  巨大なクジラがいる。駐車場のどまんなか、白線を無視してそれはいる。  いや、クジラではない。黒光りする大きな自動車だ。屋根がえばりくさったようにそっくり返り、車体は妙に長い。まごうかたなき霊柩車である。しかし清掃員は、このような立派な霊柩車を見たことがない。生まれて六十五年、ふるさとの葬式に何度も出たが、このような巨大な霊柩車にはお目にかかったことがない。  清掃員はかなしばりにあった体をどうにか動かし、クジラに近づいて中をのぞいた。  無人だ。助手席は広く、ふたりは余裕で座れる。ただ長いだけではなく、このクジラは幅も広い。 「えらぐ贅沢だなや」清掃員は感心する。  管理室を見るが、管理人は窓のむこうで大あくびをしている。「おーい」と声をかけるが、気付かない。そこで清掃員は、車の正面に回ってみる。するとフロントガラスに白い紙が貼ってある。便箋くらいの大きさに、雑誌か新聞の活字を一文字ずつ切り貼りしてある。 『死体は預かった 身代金を用意しろ 金額は変更する』  あとには数字が並んでいる。清掃員は一けたから順に数えてゆく。「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、ひゃくまん、いっせんまん、い、いちおく」  清掃員はそれが一億円だとようやく読み取れた。  大河内は最上階の社長室で、いらいらと部屋の中を行ったり来たりしていた。  窓のむこうのホテルを見て、人間たちの足元を思い浮かべる余裕はない。腕時計を見ると、十時を五分過ぎている。 「遅い!」  大河内が吐き捨てるように言うと、秘書の伊藤ゆかりは落ち着き払って答える。 「三十分前に電話したばかりですわ」 「俺が来いと言ったら、五分で飛んで来るべきだ」 「あの方はうちの社員でもなければ、顧問弁護士でもありません」 「じゃあなんだ!」 「とかげのしっぽですわ」  大河内ははっとする。 「いいですか? まだわれわれは彼に一円も払っていないんです。彼はいつだって、降ります、と言える立場なんです。あそこまで内情を話してしまったからには、彼に頼るしかありません。失礼な態度はとらないようにしてください。今日中に着手金も払いましょう」 「とかげにか?」 「しっぽになってもらうには、多少の投資が必要です」 「うーむ」 「敵は一億を要求して来たんです! 小さな金を惜しんでいる場合ではありません」  社長のデスクの電話が鳴った。大河内が出ようとするのを制し、伊藤が受話器をとる。 「百瀬先生が受付に? ではそこで待つようにお伝えください」  シンデレラシューズ本社ビル一階の正面は全面ガラスばりで、車のショールームのような明るさと広さがある。  百瀬は受付嬢に待つように言われ、ロビーをぶらぶら歩いてみた。  正面玄関の外のアプローチには、ひとかかえくらいの大きさの、ガラスの靴のオブジェがある。それは表通りからも人目を惹く。雨が降ると水を浴びて美しいだろうと思われる。  内側の広いロビーには、形の良い靴たちが片方ずつガラスの球体に包まれて、天井から吊るされている。高名なデザイナーが関わったであろう美しいインテリアデザインだが、全体に透明感がたち過ぎる。透明感が演出するものは、はかなさであり、百瀬はそれにあやうい印象を受ける。  足元を包むものを売る会社としては、どうなのだろう? このスタイリッシュさはどこか嘘くさい匂いがする。  百瀬は自分の足元を見る。サクライ印のしっかりとした靴だ。この実直さと会社の顔に落差を感じる。 「お待たせしました」  振り返ると、伊藤が立っている。黒いスーツ、ひとすじの乱れも無く後ろにまとめられた髪、清楚な色の口紅、そしてなんだか今日はやけに低姿勢だ。笑顔で百瀬を見つめている。めがねの奥の目はいかにも下から目線である。 「急にお呼び立て申し上げまして」  そう言って伊藤は約六十度のおじぎをした。 「なにかありましたか?」 「これから地下にご案内します。お話はそこで」  伊藤はちらっと受付を見る。ほかの社員に知られたくないらしい。  エレベーターで下に向かう。  伊藤は顔が小さいせいか、印象として背が高く見えるが、こう至近距離で見ると、かなり小柄だ。後ろに立つ百瀬の鼻先に、伊藤のまとめた髪の固まりがある。漆黒のお団子だ。以前七重が買って来た『イカスミ饅頭』を思い出す。どこかの海(もちろん国内)のおみやげで、なかは普通のこしあんなのに、それを包む皮がイカスミのエキス入りなのだ。余計な仕事をしてくれると思った。百瀬は甘い物が好きだ。普通の温泉饅頭のほうがよほどありがたい。七重と野呂はうまいうまいと食べていたが、百瀬は磯臭さに辟易《へきえき》した。事務所内の猫たちがぞろりと寄ってくるくらい、魚系の匂いがした。  もちろん目の前の漆黒の団子は磯臭くない。このタイプの女性にしては珍しく、香水の匂いすらしない。そして黒いスーツの二の腕に、白い毛が一本、付着している。短さからいって、猫の毛と言えなくもない。百瀬は昨夜拾ったサビ猫を思い出す。  部屋でおとなしくしてくれているだろうか。事務所には猫があふれているが、百瀬は自宅で猫を飼ったことがない。ペット不可のアパートだからだ。心配ではあるが、事務所に連れて行き、七重の逆鱗に触れるのもおそろしく、とりあえず、大家に見つかるまでは部屋に置こうと思っている。  地下二階に着いた。  ドアが開いた途端、百瀬は全身があわだつような感覚を覚えた。  灰色のコンクリートに囲まれた地下の空間に、大きな黒い固まりが、がつんと存在している。宮型霊柩車。キャデラック・リムジンに違いない。葬儀場のカタログで見るのとは迫力が違う。ここは会社の地下駐車場だ。あまりにも大きな異物である。 「本日駐車場は使用禁止にしました。このことを知っているのは駐車場の管理人と発見者の清掃員、そして連絡をもらったわたくしと、社長の大河内だけです」  伊藤はそう言うと、百瀬の背中を押して霊柩車に近づけた。フロントガラスに貼られた白い紙が目に入る。 『死体は預かった 身代金を用意しろ 金額は変更する』  そのあとに数字が並んでいる。一億円とひと目でわかる。  百瀬はゆっくりと霊柩車を一周する。黒い車体に自分の姿が映る。 「午前七時半に清掃員がここに来た時にはもうここにあったそうです」  百瀬は伊藤の説明を聞きながら、丁寧に車体を眺め、ゆっくりと後方に移動する。 「社長は?」  言った途端、百瀬の鼻先で後部扉が開いた。思わず一歩下がると、中から大河内が現れた。ずんぐりした体をダンゴムシのようにこごめながら、降りようとしている。 「失礼」  大河内は百瀬をちらりと見て、車から降りた。まともな挨拶は無しだ。 「入っていいですか?」  百瀬が尋ねると、「ああ」と大河内は答える。愛想をよくするのは絶対嫌だ、という態度だ。  百瀬は車内に入り、柩をながめる。立派だ。キャデラックに似合う、高級感あふれる柩である。そっと窓を開けて中を覗く。 「からですね」  言いながら、車内を見回す。床にはチリひとつない。百瀬は降りて、今度は前のドアを開けて運転席を覗く。鍵は甘く差し込んである。脇に運転手のスケジュール表があり、鉛筆で大河内家と記載がある。運転席の足元に草が数本、落ちている。百瀬は草を拾い、ハンカチに包んでポケットに入れた。助手席に目立った汚れは無い。最後に走行距離を確認し、ドアを閉める。  百瀬は再び正面に回り、フロントガラスの紙を見る。 「いったいどういうことなんだ?」  大河内はいらいらと叫ぶ。  百瀬は腕を組んだまま、答えない。上は向いていないので、そう困った状況ではないらしい。  百瀬の落ち着いた態度に、大河内は根負けした。伊藤が言うように、「降ります」と言われたらおしまいだ。「警察に通報しましょう」と言われても困る。やはり着手金を払わないとだめだ。 「いくらだ?」  大河内は弱々しく百瀬に尋ねる。  百瀬は即答する。「一億円です」  大河内はぎょっとするが、百瀬はフロントガラスを見ている。数字を読んだだけなのだ。 「まず、東園寺に連絡しましょう。無事霊柩車を取り戻せた、お返ししますと連絡し、運転手に来てもらって、返却しましょう」そう言って百瀬は紙を剥がした。 「ああ、そうか、それでいいかな」  大河内は伊藤を見る。伊藤は頷いて、携帯で東園寺に電話をかけ、今百瀬が言った通りに話した。 「一時間で取りに来ると言ってます」  伊藤は電話を切るとそう言った。  大河内は青い顔で、立っているのも辛そうだ。 「社長室に戻りましょう。そこで今後の相談を」  伊藤が促すと、百瀬は剥がした紙を伊藤に渡しながら言った。 「わたしはあそこの管理室で、運転手を待ちます」  大河内は一瞬、心細そうな顔をしたが、「あとで来てくれ」と言って、伊藤に支えられながらエレベーターに入って行った。  百瀬は管理室の小窓をコツコツと叩いた。すぐに中の人間がドアを開けてくれた。  クラシック音楽が聞こえて来る。ガードマンの制服を着た推定五十歳の管理人と、青い作業服を着た清掃員がいる。こちらはもっと歳をとっていそうだ。八畳くらいのスペースで、ふたりはラジオを聴きながらお茶を飲み、せんべいを食べてくつろいでいる。  部屋には窓が付いており、そこから霊柩車が見える。  百瀬が「秘書の伊藤さんに呼ばれて来た弁護士です」と言うと、管理人は百瀬のバッジを見て「聞いてます」と言った。 「あと一時間すると、葬儀場の運転手があの車をひきとりに来ます。運転手と話がしたいので、それまでここで待たせてもらっていいですか」 「まずお茶でも飲まいん」  清掃員がお茶をいれてくれた。仙台出身で、出稼ぎに来ているのだろう。百瀬は学生時代、趣味で全国の方言を研究したことがある。  すすめられてパイプ椅子に座り、清掃員がいれてくれたお茶を飲んだ。 「おいしい」  百瀬は驚いた。伊藤ゆかりがいれた日本茶とおなじくらいおいしい。 「そりゃあ、新茶の一級品だからな」 「この会社の方針で、役員室から下まで、つまり社員全員、同じ茶葉が配られるんです」と管理人が説明する。「わたしはビルの管理会社の人間でして、シンデレラさんの社員ではないのですが、会長さんのおはからいで、ここまで配ってくださるんです」 「会長に会ったことありますか?」 「いいえ」管理人と清掃員は同時に否定した。 「会長さんは車をお使いにならないので」  百瀬はせんべいをすすめられ、バリバリと食べた。一緒に飲んだり食べたりすると、ガードが解けて、話が聞きやすい。 「おふたりは会長の葬儀には行きました?」 「いいえ、まさか」管理人と清掃員は再び同時に否定した。 「あの日、会社は通常営業していました。役員さんや管理職の方々は葬儀に出ましたが、社員は普通に働いていました」と管理人は言う。 「今日、あの霊柩車を最初に発見したのは?」 「おらです」清掃員が手を挙げた。 「七時半頃、いづものようにここさ来たら、あれがあったです」  管理人は「わたしは彼に呼ばれて、車に気付きました」と言う。  百瀬は窓から霊柩車を見ながら尋ねる。 「この駐車場は夜も自由に入って来られるんですか?」 「夜はシャッターが閉められています。登録してある人間はリモコン操作で開け閉めできますが」 「リモコンキーを持っている人間のリストはありますか?」  管理人は「ありますが」と言いながら、困った顔をした。「社外秘なんで」  すると清掃員が言った。 「おめ、警察の言うごど聞がねどえれえことになっつぉ」  そう言われて、管理人はますます困った顔をした。  自分は警察ではないと説明するのも面倒で、百瀬はそのまま黙っていた。すると、管理人はしぶしぶリストを見せた。  百瀬はそれをメモした。ここを自由に使えるのは役員五名で、その中に会長三千代の名もあった。 「会長は車を使わないのに、キーを持っているんですね」と確かめると、「使わねんならなぐしたかもしれねえな」と清掃員が口を出した。「鍵っこってすぐなぐしてしまうんだ、おら」と恥ずかしそうに笑った。「あどがらめっけでも、もうなんの鍵だがわがんね。んでもなげらんねくて缶っこにためておいだりすんだ」  百瀬は残りのお茶を飲み、さりげなく尋ねた。 「会長の葬儀でなにかトラブルがあったといううわさは知りませんか?」 「いいえ」管理人と清掃員は同時に否定した。「葬儀があったことも忘れてたくらいです」「顔もわがんね」  ふたりにとって会長は遠い存在のようだ。 「あれ、会長さんの葬儀に使われた霊柩車なんですか?」  管理人は百瀬に尋ねたが、百瀬は顔を横に振り、「わたしも葬儀に出てないので何もわからないのです」と答えた。  清掃員はお茶を飲み、しみじみとつぶやいた。 「そういえば、会長は亡くなってしまったんだな。こんなにうめえお茶、もう、わけでもらえねえかもしれねえな」  それだけが心残りのようだ。  ベルが鳴った。内線電話だ。管理人は電話に出ると、はいはいと返事をして切った。 「運転手が到着したそうです」と管理人が言った途端、ドアをノックする音が聞こえた。開けると、黒いスーツを着た男が立っている。 「東園寺のものです」男は言った。  百瀬は男と共に管理室を出た。 「早かったですね」 「地下鉄で来ました」 「この霊柩車の担当の方ですか?」 「車に専属運転手はいません。葬儀の週間スケジュールでその日の担当が決まります」 「大河内家の担当は?」 「わたしではありません」 「担当した運転手の名前を教えていただけますか」  運転手は何も言わずに白い手袋をはめ、ドアを開け、運転席に座り、ドアを閉めた。キーをしっかり差し込み、エンジンをかけ、窓をすうっと開けた。そして前を向いたまま答えた。 「類田《るいだ》は解雇されました」 「え?」 「責任を取らされて、解雇になりました」  運転手は質問を拒むように窓を閉めようとした。仲間の解雇処分に腹を立てているに違いない。百瀬は「待って!」と言いながら、手をすべりこませ、てのひらを窓に挟まれた。かなり、痛い。  運転手は再び窓を開け、「なんです?」と怒ったように百瀬を見下ろす。運転手以外の人間はすべて敵だ、とでも言いたげだ。  百瀬は自由になった手をぶらぶらさせながら「走行距離についてお尋ねしたいのですが」と言った。 「オドメーター? トリップメーター?」  運転手は不機嫌ながらも、律儀に返答しようとしている。 「トリップメーターです。リセットするタイミングは」 「担当日の朝、トリップメーターをリセットしてゼロにするのがうちの決まりです。だからこの数字は」 「犯人が走った分と言う訳ですね」  百瀬の発言に、運転手は小さく頷くと、すっと窓を閉め、ちらっと管理室を見た。  管理人は片手を挙げ、ボタンを押す。  ううううう、と地響きを立てて霊柩車は動き始め、ゆっくりとスロープを上って行く。優雅だ。深海を潜水していたマッコウクジラが空気をもとめてゆったりと上昇してゆく姿に似ていた。  社長室で、大河内は青ざめた顔で伏し目がちに座っている。  百瀬はその姿を冷淡に見ていた。伊藤ゆかりがいれてくれた日本茶はやはりうまかったけれども、清掃員がいれた味と大差ない。  大河内と百瀬は相対していた。間にあるテーブルには例の白い紙がある。 「どうすべきですかね?」大河内はやっと口をきいた。 「どうするといいますと?」百瀬は逆に尋ねた。  大河内は色をなした。 「着手金は払う! さっさと解決しろ」  百瀬はあきれて伊藤を見た。きつい顔で大河内を睨んでいた伊藤は、百瀬の視線を感じると、おだやかに笑ってみせた。 「百瀬先生、お茶のおかわりいかがです?」 「いえ」百瀬は断り、大河内を見据えた。 「携帯電話に犯人から連絡がありましたか?」 「ない」 「なぜないのでしょう?」 「じらしているんじゃないのか?」 「大河内さんの携帯番号を知らないからではないでしょうか」 「俺は犯人に番号を伝えた! この口で!」 「口頭で一回伝えただけでしたら、覚えられなかったのではないでしょうか」 「はあ? 身代金要求しておいて、あれっぽっちの数字を聞き逃したって? そんな阿呆じゃないだろう」 「数字って覚えにくいものです。視覚ではなく音声で入った情報だとなおさらです。商売をなさるあなたのような人や、わたしのような弁護士は一度数字を耳にすれば覚えられますが、それは職業病みたいなものです」  大河内は黙り込む。  百瀬は再び質問した。 「あなたははじめ千五百四十万円を要求されましたよね」 「ああ、そうだ」 「なぜだと思います?」 「少しずつつり上げるつもりじゃないのか」 「千五百四十万円必要だったからじゃないでしょうか」  伊藤が口をはさんだ。 「先生、いったい何をおっしゃりたいのです?」 「犯人像を推測しているのです。千五百四十万必要な人間が、必要にかられて、霊柩車を盗んだ。生きた人間を誘拐すると顔を見られますし、隔離がたいへんですから、死体にしたのでしょう。死体の身代金を要求するからには金持ちがいい。犯人は豪華な霊柩車を狙います。  霊柩車を盗んだはいいけれど、柩の遺体がどういう人だかわかりません。だからまず葬儀場に電話を入れます。葬儀場の電話番号は運転手のスケジュール表に書いてありました。それを見てかけたのでしょう。すると大河内さん、喪主のあなたが出てきて、大河内と名乗り、電話番号も教えてくれました。でも咄嗟のことで、メモできませんでした。だから次の電話がかけられない」  大河内はあきれたような顔で、はははと笑った。 「犯人はそんな行き当たりばったりの、まぬけ野郎なのか?」 「あくまでもわたしの推測です」  大河内と伊藤は顔を見合わせた。それから大河内は「珈琲をいれてくれ」と伊藤に頼んだ。伊藤は黙って出て行った。大河内は煙草に火をつけ、吸い始める。  大河内の髪は相変わらず七三にぴっちりと分けられ、黒々とあぶらっぽいが、こめかみ近くには白髪がちらほらと混ざっている。  百瀬は尋ねた。 「お子さんはいらっしゃいますか」 「いない。先生は?」 「いません。まだ独身なので」 「独身? それはそれは、自由ですな」 「よくそう言われますが、そろそろ不自由になってみたいです」  大河内と百瀬はふふふ、と同時に笑った。そこへ伊藤が珈琲を運んで来た。  大河内はうまそうに珈琲を口に含むと、テーブルの上の白い紙を見て言った。 「そのまぬけな犯人が、こういうことをするかな」 「おそらく誰かが入れ知恵をしたのでしょう。犯人は大河内という名前から、死体の身元がわかった。社葬は新聞にも載りますからね。シンデレラシューズの会長が亡くなったのなら、相当額の生命保険がおりる。ならばこれくらい要求しろと誰かがアドバイスしたのでしょう」 「足元を見やがって」大河内は舌打ちをした。 「で、やつらはどうして霊柩車と柩を返して来た?」 「あんなものは邪魔なだけです。目立つし、置き場所に困ります。手放すに限ります」 「でも身代金は」  百瀬は白い紙の『死体』の文字を指差して言った。 「あくまでも死体の身代金です」 「死体って、あんた、そのことは先日説明しただろう?」  百瀬は頷く。 「大河内さん、喜んでいいんじゃないですか?」 「はあ?」 「結局、盗まれた霊柩車と柩は戻って来たんです。ほかに何も盗まれていません。そもそも一億出してまで返して欲しいものなんて、なにもないじゃないですか」  大河内と伊藤はハッとして、同時に顔を上げた。  百瀬は大河内の目を見て言った。 「もともと柩はカラなんですから」  瞬間、大河内は目をそらし、伊藤はそわそわと周囲を見回した。  百瀬はしばらく相手の言葉を待っていたが、ふたりが何も言い出せずにいるので、話を続けた。 「犯人はこうして手紙をよこしましたが、受け取り方法も期限も書いてありません。これからどうやってあなたから一億円を巻き上げるかは、犯人が考えることで、こちらがあれこれ詮索する必要はありません」  大河内は口をへの字に閉じたままだ。  百瀬は世間話をするように、言葉を柔らかくしてみた。 「それにしてもあんな有名な寺がこのようなやらせの葬儀に協力するとは、サービス精神が旺盛ですね」  大河内は苦笑いをした。 「しょせんイベント産業さ。社葬のような大きい企画は大歓迎ってわけだ」 「納棺《のうかん》の儀式はどういうふうになさったんです?」 「最期のお別れってやつか? 社葬だからそんなもんすっとばしたって、誰も気付きやしない。弔問客は進行係の誘導通り動いて、神妙な顔をしてみせるだけさ。役員や職人の中には、ひと目会いたいだのがあがあ言うものもいたが、会長の遺言と言えば、素直に従う。あいつら、おふくろの口から出たことなら、げっぷだって正しいと思ってる。霊柩車には最初からカラの柩を入れておいた。やらせと知っているのは葬儀事務局の限られた人間と、坊主だ。現場の係員も知らんしな」 「運転手も知らないわけですね」  百瀬はあの霊柩車を運転するはずだった類田という男は今どこで何をしているのだろうと思った。  大河内は落ち着きを取り戻した。 「我が社で出す社葬は、今後すべてあそこでやると条件も付けた」 「では大河内さん、あなたもいずれあの霊柩車で運ばれるというわけですね」 「うちがずっと第一線の企業でいられたらだがな」  百瀬は自分の靴を見た。昨日より今日、今日より明日というように、日々心地よさが増す靴だ。 「良い靴を作り続けていればだいじょうぶですよ」  すると大河内は苦い顔をした。この一瞬の表情を、百瀬は見逃さなかった。  百瀬は思った。サクライ印の靴は今後製造終了となるかもしれない。この靴はおそらく会長の意志で作られていたのだ。すべての社員に良いお茶を配るように、すべての靴に心をこめたのだろう。大河内が履いている靴を見ようと思ったが、テーブルに隠れて見えない。どんな靴を履いているのだろう。  そして問題の会長だ。カメラ嫌いということで、写真は無いそうだ。遺影は何年も前に期限が切れたパスポート写真を引き伸ばしたもので、実年齢よりかなり若いし、輪郭も曖昧だ。 「会長さんのお具合はいかがですか?」 「ああ、まあ、な。完全看護の病院だから心配はない」 「認知症を隠す必要があるでしょうか」 「会長自身のご意志ですから」伊藤が口をはさんだ。 「まだ意識がはっきりしているうちに、そうおっしゃったんです。絶対知られたくない、もしそうなったら世間には死んだことにしてくれと。週刊誌に写真を撮られたり、話題にされたくないのでしょう。発症前は身ぎれいな、たいそうしゃんとした方でしたから」 「お見舞いに行きたいのですが、どちらの病院ですか」  百瀬の問いに、伊藤はぷつっと口をつぐんだ。懸命に無表情を作りながら、なにか言葉を探しているようだ。  一方、大河内は真っ赤になった。「あんた警察か? 取り調べでもする気か?」と怒鳴り出し、それを遮るように伊藤は言った。 「本日はご足労おかけしました。遅くなりましたが着手金をお支払いします。また何か動きがありましたら、その時はどうぞよろしくお願いします」  百瀬は曖昧に頷いて立ち上がった。 「とにかくすべてが戻って来たのですから、めでたしめでたしじゃないですか」  そう言い捨て、百瀬は出て行った。  残された大河内と伊藤は、見捨てられた子猫のように、心もとない顔で見つめ合った。      ○  百瀬が事務所に戻ると、野呂はうれしそうに報告する。 「シンデレラシューズから連絡がありました! 今週中に入金するそうです」  百瀬は、それはよかったですと言いながら、デスクのメモを見る。近々の仕事がメモしてある。まずはペット不可の環境でチンチラゴールデンを飼いたいマダムの件。彼女が住むマンションの管理組合の人間に会わねばならない。そのあと、マダムの部屋で状況を確認しなければならない。  マンションの規約を読み返していると、電話がかかってきた。野呂は書類の整理で両手がふさがっており、七重は例によって猫トイレの掃除に余念がなく、だから電話は百瀬がとった。 「百瀬法律事務所です」 「大福と申します」  結婚相談所は顧客の職場にかける場合、社名を名乗らず、担当者名を告げる。顧客のプライバシーを守るためだ。 「お世話様です、百瀬です」 「先日お見せした写真の方から了承が得られましたので、次回の日程を決めたいのですが、事前に作戦を伝授したいので、今日こちらへお越し下さい」  百瀬はちらっと時計を見て、「今日は伺えません」と言った。  しばらく返答がなかったが、やがて「どうしてです?」とドスのきいた声が返って来た。ドスのききかたが半端ではない。百瀬はおやっと思い、緊張した。 「今日は早く帰宅したいので」 「仕事ではないんですね」 「ええちょっと、早く帰りたいんです」 「熱意が、足ら、ない、んじゃ、ありません?」  単語ひとつひとつが痛い。鼓膜につきささるようなとげがある。しかし、今日だけはゆずれない。 「すみません、今夜はどうしてもだめなんで」と言いかけたら、電話はぷつりと切れた。  百瀬は驚いた。こちらは客である。安くはない入会金を払っている。それだけではなく、年会費を三回も払っている。さらに、ひとり紹介してもらうたびに紹介料も発生する。百瀬は三十人分払ってきた。それらすべてが不成立なのだから、無駄金を払い続けたことになる。ここで退会したらそれこそ本当の無駄金になってしまうので、運命の相手につぎ込んでいると思い、泣く泣く払い続けているのだ。三十人分払ったらひとりぶんタダになる、という特典もないのだから、もう少しやわらかい声で丁寧に応じてくれてもよいのではないか。  が、少し考えて思い直す。  それだけ熱心に考えてくれているのだと思い直してみる。ひょっとするとなにか、特別な技を教えてくれるのかもしれない。三十回だめだった人にだけ教えてくれる見合い成就の秘技かもしれない。来いと言われて即日行かなければその特典が消滅するのかもしれない。  百瀬は時計を見る。五時半を過ぎている。明日の準備もできていないし、自宅の状況を思うと、とにかく今日はまっすぐに帰宅したい。無理だ。しかし、思えば大福亜子に「行けません」ときっぱり言い切ったのは今回が初めてかもしれない。自分の言い方も冷淡だったかもしれない。断るにしても「明日なら伺えます」とか、もっと言い方があった。  百瀬は反省して、電話をかけ直した。 「ナイス結婚相談所でございます」  出た! 鈴のような声だ。六番室の美女に違いない。美女というのは想像上だけど、これだけの美声は美しい顔からしか発せられないと思う。竹久夢二《たけひさゆめじ》描くところの柳腰の美人だ。  百瀬はこれ以上ないほど感じの良さそうな、それでいて知性を匂わせる声で、その上に男らしさも加味して、要するに精一杯気取って、話してみる。 「百瀬と申します。いつもお世話になっております。お忙しいところたいへん恐縮ですが、大福さんはいらっしゃいますか」  それまで猫トイレ掃除に熱心だった七重が「大福」という言葉に反応した。  にたりと笑いながら野呂を見ると、野呂もくちもとをゆがめながら七重を見て、ふたりは同時に百瀬を見る。最近ふたりの間では「大福という人物は百瀬のプライベートな知り合いではないか」という考えが有力になっている。  そうとも知らず、百瀬はうきうきと、鈴だ鈴だと受話器をにぎりしめている。 「少々お待ち下さいませ」  百瀬はうっとりとする。美しい声だ。大福亜子に代わってもらわなくていいとすら思う。ところがこの鈴の女はうっかり屋らしい。保留ボタンを押し忘れている。 「先輩、電話! 例の三十連敗男!」  百瀬は頭の先から尻の穴まで、ざっくりと日本刀で切り裂かれたような痛みを感じた。身がまっぷたつに裂かれ、あまりにみごとな切り口に、血が一滴も出ないような気がする。 「ただいま代わりました」  ドスのきいたいつもの声だ。百瀬はただぼうっと、受話器を握りしめている。三十連敗男という名称は、おそらく大福亜子が付けたのだろう。まさか鈴虫ではあるまい。 「なにか御用ですか?」  いつもよりいっそう冷淡だ。連敗男のくせに、日にちを選ぶとは、身の程をわきまえろと言いたいのだろう。 「すみません、なんでもありません」  力なくそれだけを言うと、電話を切った。百瀬は傍目にもあきらかに気落ちしている。  野呂と七重は「なかなかうまくいかないらしい」と察し、年下のボスの青春をそっと見守ることにした。  百瀬は信号を待ちきれない。  いつもならば横断歩道を渡る四車線の大通りを今夜は歩道橋で渡ることにして、階段を駆け上がった。息があがる。二十代では一段飛ばしに一息に駆け上がった階段だが、来年四十になる百瀬は、一段一段、小走りに駆け上がる。ようやく上にたどり着くと、橋本体は走り切るつもりだったが、すっかりあがった息を整えるために結局は歩くことになる。下りの階段では手すりにつかまって、せいぜい転げ落ちぬよう、たどたどしく降りた。  急いでもかかる時間は同じだ。息切れして立ち止まった百瀬は、我が家を目の前にし、腕時計を見る。八時をまわった。きっと待ちくたびれている。腹もすいたろう。いてもたってもいられない。  木造モルタルの二階建てアパートである。全部で八部屋あるが、入居しているのは三部屋で、あとは空き部屋だ。建った当時は人気だったらしい。四十年前のことだから、大家の情報を真に受けるしかないが、学生向けに作られたバストイレ付きの贅沢なアパートは、借り手が殺到し、抽選会が開かれたという話だ。すっかりホラというわけでもないだろう。  六畳一間。今はもう外壁は剥げ、外階段は錆《さ》びている。  道沿いの二階の角部屋が百瀬の部屋だ。ここに学生時代から住み続けている。  外階段を上り切り、鍵を開けて部屋に入った。照明をつけ、見回すが、見当たらない。黄ばんだ畳の六畳間のまんなかに、カラの茶碗がひとつ。ほかになにもない。  百瀬は畳に這いつくばって棚の下を覗く。見えるのはほこりだけだ。  トイレのドアを開け、便座のふたをおそるおそる開けて覗く。水があるだけだ。  ひとり六畳間に立ち、「おーい」と呼びかける。応答はない。  百瀬は冷蔵庫に目をとめる。二ドアの古い型式の冷蔵庫だ。 「まさかな」  百瀬は出勤前のどたばたを思い出す。  大河内からの電話で呼びつけられ、あせっていた。急いで冷蔵庫から牛乳を出して茶碗に注ぎ、畳の中央に置いた。そのときたしかに子猫はいた。牛乳を飲み、げぷっと、牛乳くさい息を吐いた。それで安心し、ネクタイを締めながらでかける準備をし、牛乳パックを出しっ放しだったのに気付いて冷蔵庫にしまった。まさかあのときに?  百瀬は嫌な汗をかきながら、冷蔵庫のとってをそうっと握る。ぎゅっと目をつぶり、思い切ってドアを開けた。冷気が鼻先をくすぐる。そろそろと目を開けてみると、チーズと納豆が見えた。次に牛乳が見えた。凍りついた子猫はいない。とりあえず、ほっとする。  部屋の隅に置いた猫トイレは未使用だ。アルミの弁当箱に砂を入れておいたが、砂はさらさらときれいなままだ。  ビーッと呼び鈴が鳴る。  砂入り弁当箱を持ったまま、玄関へ行く。ドアを開けると大家が立っている。七十はとうに過ぎたじいさんで、いつも作務衣《さむえ》を着ている。 「キナ臭くないかい?」  大家は首を伸ばして百瀬の肩越しに部屋を見た。肩にめりこむように付いていた頭部がすっと持ち上がり、隠されていた首は意外と長い。首の長い大家の名前は梅園光次郎《うめぞのこうじろう》と言う。梅園は断りもなく六畳間に上がり、畳の上の茶碗を持ち上げて匂いを嗅ぐ。 「ご近所から苦情がきてな。昼間、猫の鳴き声がするっていうんだ」  百瀬はひやりとし、猫トイレを背中に隠す。 「うちのアパートは動物厳禁だ。入居規約に書いてある。ここで猫の鳴き声なんぞ、あってはならぬこと。そうでないかい? 弁護士さんよ」 「はあ」  梅園は作務衣の右ポケットから鍵を出し、百瀬の目の前でチャラチャラと揺らす。 「緊急の場合は大家が部屋に立ち入っていいことになっている。これも規約通りで間違いないね?」  百瀬ははっとして固まった。おそるおそる「大家さん、チビは?」と小さな声をしぼりだす。  梅園は両手を腰に当て、胸をそらす。 「あってはならないものは処分する。それが大家の職務であり、近隣住民に対する責任てもんだ」  百瀬は血の気が引いた。このようなむごいことがあっていいものだろうか?  弁護士になって十五年、数々のむごい事件に遭遇してきた。そのたびにひるむ気持ちにふたをして、顔をそむけず、頭の先からつま先に到るまで、正義のエネルギーをみなぎらせて立ち向かって来た。  ところが、どうだ? 今はただ、腰が抜けそうな悲しみに青ざめるばかりだ。  たったひと晩共にしただけの、名前さえ付けていないサビ猫の命の重さに愕然《がくぜん》とする。いつもと違う。怒りより悲しみが勝る。  理由はおそらく、百瀬の猫だからである。百瀬が生まれて初めて自宅で保護した子猫だからだ。青ざめながらも気付いた。今まで数々の動物訴訟を扱ってきたが、一度たりとも飼い主の気持ちと同化したことはなかったのだと。気持ちに沿っているつもりでも、距離があったのだ。どんなに心を尽くしても、愛するものを失った当事者の気持ちにはなれないのだ。  足元が変だ。ざらつく。弁当箱を落としてしまったらしい。畳が砂だらけだ。いつ落としたのか記憶がない。  梅園はふふんと鼻で笑った。  百瀬はようやく怒りがわいてきて、静かに応戦した。 「動物愛護法をご存知ですか?」 「ああ知ってるよ! 殺さねばならない場合は苦痛を与えないこと! だろ?」  百瀬の手は発作的に梅園のむなぐらをつかみ、揺さぶった。 「こんの、く、く、く、く、く」  百瀬の顔は怒りでひきつり、目は充血している。  梅園は驚いた。この男にも感情があるのだということに、むしろほっとする思いがあった。  学生時代から常に仏頂面で、能面のように感情を見せない。今は弁護士だということは知っているが、あの有名な世田谷猫屋敷事件にかかわった人物とは知らず、ただ、身分のわりに金のない、針金のような人間だと思っていた。だいたいうちのアパートに住み続けるなんてろくな人間ではないと梅園は思う。  百瀬の手にますます力がこもった。「く、く、く」と発音し続けていると、にゃあと小さな声が聞こえる。  百瀬ははっとして声の方を見る。梅園の作務衣の左ポケットだ。子猫がポケットの底から上を見上げている。目が合った。間違いない、神が手を抜いた子猫だ。 「ちび、ちび」  百瀬は梅園のポケットから子猫を出して頬ずりした。  梅園は作務衣の胸もとを直しながら「じいさん愛護法はないのかね?」と言った。 「すみません」  すっかりいつものおだやかな針金に戻った百瀬は、頭を下げる。 「くそじじい、って言わなくてよかったな」 「ごめんなさい」  子猫は頭をゆらゆらさせながら、百瀬と梅園を見比べている。 「百瀬さん、この猫、どうするつもりだ?」 「里親を見つけます」 「それまでどうするつもりだ?」  百瀬は七重の顔を思い浮かべた。嫌味を覚悟で、事務所で飼うしかない。 「明日職場へ連れて行き、そこで飼います」  すると梅園はアメリカ人のように肩をすくめ、両手をおおげさにばたばたさせた。 「あんた、頭おかしいんじゃないか? 弁護士の事務所で猫を飼うなんて、そんなバカなことはできんだろう?」  やはり自分のしていることは「そんなバカなこと」なのだ。今すでに十一匹いますとは言えない。 「この猫はまだ赤ちゃんだ。昼間ひとりでほったらかし、ってわけにはいかない。貰い手が見つかるまで、夜はあんたがここで面倒見て、仕事に行く間はうちに預けなさい」  百瀬は梅園の顔をまじまじと見た。目はあまりに細く、周囲のしわと区別がつかず、感情は見えてこない。  一ヵ月以内に里親を見つけるという約束をして、アパートで飼うことを許された。短い間でも名前をつけてあげなさいと言われ、添い寝をしながら考えた。  子猫はぷーぷーと鼻から細い息をはきながら寝ている。ささやかな六畳間の空気をこの子猫と自分が共有している。自分以外の息づかいを感じながら布団にいると、いつもの煎餅布団が数倍あたたかく感じられる。家族を持ちたい。しみじみと百瀬は思う。大福亜子に頭を下げて、見合い成就の作戦を伝授してもらおう。  梅園は猫の朝ご飯を置いていってくれた。どろどろのおじやだ。梅園が親だったら、けっして自分を手放さなかっただろう。  そう確信したとき、百瀬はぞくりとした。張りつめたものが熔解するような、精神が弱っていくような、妙な感覚がわき、あわてて払いのける。  施設で育ったことがいけないかというと、そういうことではない。答えはこれからの自分が作るのだ。      ○  類田は駅前で客待ちしていた。  夜十一時を過ぎた。客待ちするタクシーはロータリーにざっと二十台はある。自分は前から数えて十七番目だ。最近深夜バスが始まって、客はいっそう滅った。三十分待ってもまだ十七番目で、自分の番が来るのにあと一時間はかかるだろう。その客を乗せたところでせいぜい千円、よくて千五百円かそこらの売り上げで、もどってきたらまた、二時間待たされる。朝まで待ちぼうけもありうる。車の維持費やガソリン代を考えれば、家で寝ていた方が赤字が少ない。労働の対価がマイナスだなんて、ばかばかしい。  類田はエンジンをかけ、列から離れた。  いっそひと晩中、街を流してしまおう。ガソリンを消費しまくるか、長距離客をつかむか、いちかばちか賭けてみようと思う。ひと晩限りの賭けだ。朝までひとりも乗せられなかったら、車を売り飛ばして、その金を家族に送り、自分はどこかへ消えてしまおう。知らない街の公園で暮らすのもよし、生命がもつところまでは生きて、あとは運命に任せよう。  大通りを一時間ほど流していると、ライトアップされたガラスの靴が目に入った。因縁のシンデレラシューズだ。本社ビルはこんなにでかいのだ。逃げるように通り過ぎる。  それにしても、いない。手を挙げる人間など一人もいない。もうこの国に客など存在しないのだ。不況でみなが苦労している。深夜割増料金のタクシーに乗るような優雅な客などいるわけがない。  よしこの仕事もこれまでだ。ふんぎりがついた。  信号待ちをしている時に、『未来へ』という文字が目に入った。ビルの上の大きな看板に、能天気な顔をした若者が二人、作り笑顔を浮かべて、左上を指差している。揃いのTシャツに『未来へ』の文字が堂々、プリントされている。  予備校の広告だ。こんな若造に笑顔で未来と言われても、ちゃんちゃらおかしい。  息子はこの春高校を出て、車の修理工場で見習いとして働いている。借金してでも大学へ行かせてやりたかったが、息子は「車が好きだから」と言って、自らその道を選択した。運転手という父の職業を認めてくれたようでうれしかったが、家計をおもんぱかってそうしたのは明白だ。予備校に行けるやつらの未来と、息子の未来は、どれだけ差があるかと思うと、白い歯を見せて笑う二人に猛烈に腹が立った。  信号が赤になる。類田はアクセルを踏み、思い切りハンドルを右に切った。右折レーンではない。クラクションを鳴らされ、「ばかやろう」と罵《ののし》られ、それでも類田はかまうもんかと突っ走る。免許を取得して三十年、初めて交通法規を犯した。つかまってもいい。免許が汚れても、剥奪されてもいい。未来なんてどうでもいい。  最後の夜だ。『未来』に背いて逆へ逆へと突っ走った。未来の反対側は、過去よりずっと悪いところで、おそらく地獄に違いない。引きずり込まれる前に、自分から突っ込んでやれ。  やがて大きな川に出た。土手の上に車を駐車し降りてみる。  川風がひんやりと心地よい。暗い川面がきらきらと街灯を反射している。最悪の心境でも美しい風景はちゃんと美しく見えるのだ。  この川に飛び込んだら死ねるだろうか。自殺で死んでも生命保険はおりないだろう。たとえおりたって、たいした額じゃない。車を売って金を作るまでは家族のために生きながらえよう。  突然、何かが動いた。下の河川敷で、黒い影がうごめいている。目をこらすと、大きな男がふたり、ゆっくりと土手を登ってくる。片方はかなり太っていて、酔っているのか、足元がおぼつかない。片方は骸骨のようにやせており、太ったほうを引きずるようにして、前へ歩かせようとしている。酔客は車内で嘔吐する危険があり、なるべく避けたいが、背に腹はかえられない。長距離乗ってくれるかもしれないし、声をかけるべきだ。 「だいじょうぶですか?」  するとやせた方が「手伝ってもらえますか?」と言った。大阪弁のイントネーションだ。大阪まで乗ってくれないかしらんと思いつつ、土手を駆け下りて、太った方の体をささえる。男の背中は汗でびっしょりだ。 「具合が悪いんですか?」 「ええ、病院いかんとあきません。タクシー拾いたいんですわ」 「わたし、タクシーの運転手です」 「え?」  やせた男は驚いている。 「東京てすごいわ。こんなへんぴな場所でもタクシー走ってはるんや」  類田は返事をせず、とりあえず土手の上まで巨体を運んだ。後部座席にふたりを乗せ、自分は運転席に座ると、行き先を確認する。 「とりあえず病院や。大きな病院やのうて、小さいのがええです」 「個人病院は夜中は受け付けませんよ」 「そやかて大きな病院は高いやろ。うちら保険証ないんで、自費やから、ひとつ、安いとこお願いしますわ」 「夜中やってるのは救急病院です。安いところと言っても」  類田は妙な客を乗せてしまったとげんなりする。貧乏な上に、常識が無い。長い運転手人生で最後の客がこれだ。最低ランクだ。神はわれを見放したのだ。  それならばこちらにも考えがある。車を出し、ぐるぐる探しながら走ろう。個人病院がこんな時間にやっているわけがない。めいっぱい料金を重ねて、どこかで放り出せばいい。ぐだぐだ言ったら朝まで待てと言おう。神が見放した男を甘く見るなよとアクセルを踏む。  しばらく走っていると、太った方の息づかいがいかにも苦しそうで、心配になる。お人好しがいきなり悪魔になるのは難しく、徐々になってゆくしかないのだろう。声くらいかけてもいいかなと思う。 「お客さん、苦しそうですね。どうなさったんですか」  苦しんでいる方は答えられないらしく。やせた男が返事をする。 「たいしたことない思うんやけどね、ばあさんが行け行け言うもんで」 「おばあさま?」 「血のつながりは無い、通りすがりのばあさんなんですけど、これはなんて言ったかな、なんとかって病気や言うて、それに違いないから、すぐに医者に診せろ言うんですわ」 「肺炎ですかね」 「そうや、なんかそない病名やったかな。ハで始まる病気やったと思います。いろいろと世話になっとるばあさんで、これから協力してほしいこともあるんで、一応、言うことを聞いておかんといけん思て」 「協力? お仕事ですか?」 「儲け話ですわ」 「うらやましいことです」  類田は心底そう思った。自分にも儲け話があればいい。協力してくれるばあさんでもじいさんでも欲しいものだ。  夜の街をタクシーがあてどなく走る。 「おっさんは本業があるんやから、ええですよ」  逆に木村はしみじみと運転手をうらやましく思う。もうキムラタムラの未来はない。老婆が立ててくれた新たな計画に沿い、身代金一億円を手に入れ、借金を返済し、残りの金を老婆と分け合い、田舎に小さな家でも買って、田村とふたり地味に暮らそう。  焼き芋を包んでいた新聞の切れ端で、思いがけず仏の身元がわかった。車上荒らしに盗まれ紛失してしまった遺体は八十二歳の女性だったのだ。身代わりに老婆の死体が必要だとわかった。そして目の前には、あつらえたような老婆がいる。  木村は老婆がいる段ボールの住処に近づき、叫んだ。 「死体のふりをしてください」  田村は何を想像していたのか、えらくほっとしたような顔をして、木村の横にぴたりとくっつき、「ええ思いつきや。さすがや、木村」と背中を叩いた。 「死体の役、お願いしますわ」  ふたり同時に叫ぶと、老婆ぼそっと顔を出した。  霊柩車ジャックをしたものの、死体を盗まれたいきさつを話した。 「ただしばらく柩で寝ててくれるだけでええんです。窓が開いても目を開けんといてください。相手から千五百四十万をもろたら、俺たちはすぐに逃げます」  田村は「ほんまに寝たらあかんで、焼かれて死ぬで」と補足する。 「そや。あんたは焼かれる前に起き上がって、犯人におどされて協力したと言えばええ」  木村が協力を求めると、老婆はハハハハハと心からおかしそうに笑った。 「いいかい? 大きな会社の会長が亡くなったんだ。生命保険がごっそりおりるに違いない。千五百万なんてけちなことを言わず、一億くらいふんだくってやれ」  一億。木村と田村はハッとした。そこまで金額が大きくなると、犯罪ではなく、「面白い企画」に思えた。第一、生命保険がおりるなんて、思いもよらないことだ。知り合いはみな日々の生活が精一杯で、死後の心配などする人間はいない。老婆は橋の下に住んでいるものの、歳を重ねている分、博識だと木村は感心した。  そこで老婆の言う通り動くことにした。  まず霊柩車と柩を返す。それに脅迫文をくっつける。 「遺体さえ用意すれば、脅迫できる。あんな目立つ証拠品はさっさと返してしまえ。ただし、じらす時間が必要だ。返すのは、そうさな、五日くらい後がいい。それまでいい隠し場所があるから、そこで待機する」  老婆はそう言って橋のむこう側にある都の建設予定地を隠し場所に指定した。広い範囲が高いトタン板で覆われている。隠すのに絶好の場所だ。老婆はなぜかその管理人に顔が利いた。 「もう三年も手がつけられてないし、あと三年はこのままだ。好きに使ってくれ」と管理人に言われ、そこに移動した。そして五日後、老婆に靴会社の地図を書いてもらい、言う通りに動いた。老婆に渡された「魔法のキー」で、開くはずのないビルのシャッターも開いた。  あの老婆は救いの神だ。歳をとるとみな不思議な力を持つのかもしれない。老婆は神なので、大河内の携帯番号もわかるという。まじないをして数字を割り出しておくというので、その間に木村は霊柩車の返却を実行した。  田村は焼き芋を食べたあと、ぐったりとしてしまったので、これらの作業は木村ひとりでやった。  無事返却し終えて橋の下にもどってみると、田村が体をこわばらせて苦しんでおり、老婆がガムテープをはがして腹の傷に何か液体をかけていた。まじないかと思ったが、消毒薬だと言う。小さな住まいに救急箱の用意もあるのだ。  老婆は木村に言った。「危ない。医者に行け」そして五千円札を一枚くれた。  タクシー代と医療費で五千円に納めなければならない。少しでも余ったらきちんと返そう。五千円はおそらくあの老婆の全財産に違いない。家のない老婆から金をめぐんでもらうなんて。一億円は絶対手に入れよう、そして老婆に三分の一を渡そうと木村は決意を固くする。 「なかなかありませんね」  住宅街をぬるぬると運転しながら類田は言う。料金メーターを見ると二千円を超えた。まだまだだ。五千円分はうろうろしたい。  すると後ろの男がいきなり「停まって!」と叫ぶ。  車はいやいやするように、にぶい速度で停まる。 「ここで降ります」  木村はそう言って、しわしわの五千円札を差し出した。にぎりしめていたらしく、あたたかい。 「ここで降りるって、どうするんですか、病人」 「あそこに行きます」  言いながら木村はもう田村を抱えようとしている。  あそこ? 類田が周囲を見回すと、住宅街の片隅に三階建ての小さなビルがあり、動物病院の看板が照明で光っている。そこはあくまでも動物病院である。  木村は後部ドアを自分で開け、田村を引きずり出した。そして背負おうとするが、まるで割り箸に羽毛布団を干そうとするように、類田の目には無理な仕事に見えた。類田はしかたなく手伝うことにする。エンジンを止め、自分も降りると、ふたりがかりで推定百二十キロの巨体を抱え、動物病院のベルを鳴らす。  五分後、類田は手伝ってよかったと思いながら、治療室の隅に立っていた。  目が覚めるような美形の女医で、サバサバとした口吻のわりには情があるらしい。「治療は違法行為だからできない」と言いながらも、田村の体にそっと触れ「診るだけ診てみよう」と中に入れてくれた。  動物用の診察台に仰向けになった田村は、トドのように肉が山盛りである。具合が悪いのに、だらりとせず、全身こわばったように、力がこもっている。そばで木村が心配そうに見ている。  女医は筋肉をさがすようにぎゅうぎゅうと田村の腕を押さえ、それから腹の傷に綿棒で触れ、何か調べるようであった。  類田の目に女医はやけに頼もしく見える。木村も同じ気持ちらしく、大船に乗ったと思えたのか、少し明るい顔になった。  女医はしばらく顕微鏡《けんびきょう》を覗き込んだ後、言った。 「培養《ばいよう》しないと確定できないが、おそらく破傷風《はしょうふう》だ」  木村はうんうんと頷き、「ばあさんもそない言うてました」と答える。男みたいなしゃべり方をする女だなと思う。そんなことを思うのは、余裕が出て来た証拠だ。 「すぐに救急病院に連絡しよう」  そう言って女医は受話器を握りしめた。  木村はあわてて叫ぶ。「あかん! おれら金ないんで」 「金?」女医は不思議そうな顔をする。「死ぬぞ」  木村はおいすがるように「人間も動物でっしゃろ? こいつを豚かトドだと思って、治療してください!」と叫ぶ。  女医はふっと口の端で笑う。 「豚もトドも破傷風菌には強い。弱いのは人間と馬くらいなものだ」 「じゃあ馬です、こいつ!」  女医は立ち上がると、木村の頬を叩いた。パン、と乾いた音が診察室に響く。  類田は自分が叱られたようにハッとした。 「治療費はなんとかなる。あとからでも払えるし、金がなければ国から補助もある。命を助けるのが先だ」  そう言って、女医は電話をかけた。木村はぼんやりとそれを見ている。  類田は木村を促し、ふたりは暗い待合室で長椅子に腰掛けた。あと十分もすれば救急車が到着すると言う。  類田は壁に貼ってある写真を珍しそうに見る。犬や猫の写真で、『里親募集』と書かれてある。『健康に留意し、生涯責任を持って飼ってくださる方』とあれこれ条件まで明示してある。犬猫がうらやましい。いま人間は終身雇用が約束されていない。  木村はしばらく床を見つめていたが、ぼそっと言った。 「つき合わせた上に悪いけど、釣り銭ください」  類田はポケットの五千円札を取り出した。車を降りるとき木村に渡された紙幣だ。それを木村のてのひらに握らせた。 「困った時はお互い様です」  木村は五千円札をじっと見た。若くして死んだ樋口一葉の肖像はしわひとつなくつるつるの肌をしていて、タイプの女だといつも思っていた。しかしこの樋口一葉はしわくちゃで八十歳にも見える。  類田はしんみりと言う。 「お客さん、さっき車の中で、本業があっていいとおっしゃいましたが、わたしにもいろいろとありましてね」  木村はまだ樋口一葉を見ている。 「ずっとタクシー運転手だったわけではないんです。いえ、もともとはこれが本業だったんですけどね、安全運転には自信がある個人タクシーを長いことやっておりました。ところが規制緩和とやらで台数が増えて、さらには不況で、お客さんは激減です。そこで三年前に転職したんです」 「不況なのによく次が決まりましたなあ」 「ええ、ラッキーでした。大きな寺が経営する葬儀会社で、霊柩車の運転手をしておりました」  木村はどきりとした。 「初めはおっかなびっくりでした。仏さんが乗ってる! と、意識しすぎて気持ちの良いものではなかったのですが、だんだんと慣れてきました。人生の最後をお供させてもらってるんだと厳粛な気持ちにもなりましてね。真摯に働きました。安全運転を心がけ、一分の遅刻もせず、順調に勤め上げておりました。やがて会社から信頼され、最高級のリムジンを担当させてもらうようになりました。ですが、たった三分の空白で、すべてがぱーになりました」 「三分?」 「腹を壊したんです。運転席に座って、あとは喪主の挨拶が終わるのを待つばかりの時です。急に腹が痛くなって、降りてトイレに駆け込みました。腕時計とにらめっこして、おおいそぎでしぼりだし、尻をこすれるくらいに拭き、きっちり三分で戻りましたが、霊柩車はありませんでした。信じられないことに、盗まれてしまったんです」  木村は五千円札のしわを必死に伸ばす。一度ついたしわは、なかなかもとには戻らない。 「鍵を預かったからにはわたしの責任なので、解雇されました。仏様を盗まれたご遺族のお気持ちを思えば、ただただ申し訳ないばかりで、わたしの不幸など、なんぼのものでもありません。ですが、三年間の勤勉がたったの三分で失われたかと思うと、残念でなりません。家族を食わしていかねばならないし、途方に暮れて、とりあえず、古巣へ戻ったんです」  木村はぼそりと尋ねる。 「タクシーに戻って、どないですか?」  類田は困ったような笑顔を見せた。 「それも今夜が最後です。やってはゆけないことに気付きました」  木村は五千円札を類田に差し出した。すると類田は笑顔で押し戻す。 「最後に人助けをした、そう思えばわたしも救われます」  木村は歯を食いしばった。一億円を絶対手に入れよう。そしてこの男にもごめんなさい料金を払いたい。 「すんません、お名前を」  そのとき遠くからサイレンが聞こえて来た。木村はあわてて立ち上がった。パトカーかと思い、気が気ではない。盗みを犯してから、すべてが追っ手に思えてしまう。  やがてサイレンは病院の前で止まった。それは田村を迎えに来た救急車に違いなかった。    第四章 大福亜子の憂鬱  百瀬法律事務所は久しぶりになごやかな空気に満ちている。  特に七重はいそいそと、本棚の上にやさしく語りかける。 「ポール、ポール、出ておいで」  シャム猫はちらっと頭を出すが、すぐに引っ込んでしまう。 「カモン、ポール・アンカ!」  宝塚男役トップのようなりりしい声で獣医のまことが呼ぶと、にゃおと返事が返ってくる。姿は見えない。 「そのうち降りて来ますよ」野呂は腕組みをして微笑んでいる。「知らんぷりしててごらんなさい」七重の姿に怯えているのだと言いたいが言えない。 「お茶をいれますね」七重はいそいそと給湯室へ向かった。  まことは百瀬を見る。百瀬はデスクで鼻をずるずるさせながら書類を整理している。  いつもこれだ。里親が見つかり、こうやって引き取りに来ると、必ず百瀬は急性花粉症のように鼻水を大量に流すのだ。表情は変わらないのに。泣きたい気持ちを我慢して、そのぶん水分が鼻から出てしまうのだろう。まことにとり百瀬太郎はもっとも研究したい生物である。  七重がまずいお茶をせっせといれている間に、ポール・アンカはまことの足元に寄って来た。まことはすばやくポール・アンカをケージに入れる。 「サーカスの猛獣使いみたいですな」野呂は感心する。  七重はにこやかにお茶を運んで来る。ケージを一瞥《いちべつ》し、「ハゲがあるとはいえ、純血種は人気ね」と感心する。ウウウとうなり声がする。猫なりに不本意な言葉がわかるのだろう。  まことは湯のみを受け取り、百瀬に聞こえるような大声で話す。 「里親さんは優しそうな人だ。自分もハゲてるから、親しみを覚えるって言ってる。短所を愛してくれるんだから、こいつはきっと幸せになる!」  すると七重が口をはさむ。 「相手の短所を好きになれること。男と女もこれがうまくいく基本ですよね」  七重はまことにかまをかけたつもりだが、言葉が宙に浮いた。どうにかしてこの小麦色の美女に百瀬も男だとわからせたいのだが。  一方、百瀬はこの言葉をしっかりと胸に刻んだ。こんどの見合いでは相手の短所をしっかりと見つめ、自分の短所も隠さずにしっかり話そう。しかし、自分の短所を端的に話せるだろうか? だらだらと長い話になってしまいそうだ。そうこう考えながらデスクを整理していると、まことが叫んだ。 「おい、猫弁先生、今、金庫に何をしまった?」  百瀬は金庫に鍵をかけたところで、あわてて立ち上がり、鼻をすすった。まことの言い方があまりにキツいので、叱られたような気分だ。怖い。 「六法全書だろ? 今、六法全書しまったよな?」 「あ、はい」 「この事務所、六法全書を後生大事に金庫にしまうのか? いちいち。え?」  まことは怒っているわけではない。疑問に思ったことはとことん追究しなければ気が済まないのだ。医者というものは、ただ持っている知識を駆使するのではなく、日々研究を重ねて新たな治療法を模索するので、これも職業病のようなものだ。  百瀬が萎縮しているので、野呂が代わりに答えた。 「六法全書が好きな猫がいるんですよ」 「なんだって?」 「人見知りがひどくて、なかなか姿を現さないんですけどね、六法全書が好きなんです」  まことは肩をすくめ、事務所内を見回し、「ずいぶん賢い猫もいるもんだ。司法試験でも受けるつもりか」と皮肉を言った。 「読むんじゃないんです。爪をとぐんです」  野呂は右手の指を熊手のように曲げ、上下に動かしながら苦笑した。 「引き取った初日にやられました。ぼろぼろですよ。買い替えましたがその寿命も一週間でした。爪研ぎを用意してやるのですが、だめなんです。あくまでも六法全書を選ぶんです。机の引き出しに入れたり、カバーをかけたり、こちらも知恵を絞ったのですが、そいつもすばらしい探求心でしてね、かぎ出すんですよ。人間だったら刑事か探偵、いや、危ないストーカーになっていたかもしれませんがね、猫にしとくには惜しいほどの根性なんです。で、七冊目で決意したんです。金庫にしまうことを。一匹のちっちゃな脳みそに対抗するのに、三人の知恵を尽くした結果なんですわ。はっはっは」  なんという法律事務所だ。まこともつられてはっはっはと笑った。  百瀬は鼻をすすりながらまことに近づき、一枚の写真を渡した。 「こいつの里親もお願いします」  まことは受け取った写真をじっくりと見た。どこが顔だか不鮮明な、毛のかたまりが見える。 「猫だよな? ここにいるのか?」 「いえ、先日拾って、自宅のほうにいます。ペット不可の借家なので、短期間ならという条件で置いてもらってます」 「拾った?」まことはあきれたようにため息をつく。 「まるで聖母だな、猫弁先生。いつ死んでもいいぞ」 「は?」 「あんたは安心して死ねる。天国に行く通行手形は手に入れたも同然だ」  百瀬は誉められたのかけなされたのかわからず、あいまいな顔をした。「ここに連れてくればいいじゃないか。ポール一匹いなくなるぶん、スペースはあるだろう」  すると七重の顔色が変わった。たとえまことでもそれだけは許さないとばかりに抗議する。 「猫は集団生活に向いてないと思いますよ! これ以上は無理です」  百瀬は「ここには連れて来ませんから」と言いながら鼻水をすする。 「お忙しいでしょうけど、里親探し、お願いします」  まことは写真をタテにしたりヨコにしたりしてしかめっつらをする。 「これじゃあ大きさもわからない。一度実物を見てみないと。写真も撮り直す必要がある。かわいくないと貰い手が見つからないんだ」 「この写真じゃだめですか」 「だってどこが顔だかもわからない。名前はあるのか?」 「テヌー」  七重は「まあ素敵! フランス語かなにかですか?」とうわずった声で叫ぶ。この事務所で面倒をみなくて済みそうで、気を良くしているのだ。  百瀬は「いえ、フランス語では」と口ごもる。 「わかった! たぬきをもじったんですね。だってたぬきにそっくりじゃありませんか」  七重は写真を覗き込んで言う。  百瀬はあいまいに頷く。神様の「てぬき」をもじった、とは言えない。たぬきをもじるよりも猫に失敬だ。しかしひと晩かけて決めたこの名前を百瀬は気に入っている。 「仮名です。里親さんが見つかれば、そちらで付けていただくのがいいでしょう」  そう言いながら、百瀬は鼻水をすすった。いずれ人の手に渡る子猫にあまり感情移入してはいけないと踏みとどまっている。ただ、この猫の毛色のデザインの不具合が、妙に愛しいのも事実だ。七重曰く、短所を好きになるとうまくいくらしい。テヌーとの仲は保証付きのようだ。  まことはポール・アンカのケージを軽々と抱えた。 「ついでにテヌーをひと晩預かって必要な検査をする。猫弁先生、なにぼけっとしてる? 今からあんたはわたしと一緒にうちの車に乗って、自宅まで案内するんだ。そしてテヌーを渡してくれ。たいした時間じゃないだろ」  七重は野呂を見た。野呂も七重を見た。大福という女と良い展開をむかえられなかっただろう百瀬に、こんどこそ春が来る事をふたりは願っている。まことは一応女だし、百瀬は男に違いない。年齢もおなじ頃だ。ひとつの車に乗り、家に向かう。何かあってしかるべき状況だ。この不器用な弁護士に幸あれという思いは、普段水と油のように気の合わない野呂と七重の、唯一の共通点なのである。  まこと動物病院の車は救急車に似ている。白くて、後部にケージがいくつも乗せられる充分なスペースがある。すでにひとつのケージには柴犬がいる。その横にポール・アンカのケージが据えられた。フーッと威嚇したのはポール・アンカのほうで、柴犬はこわがって後ずさりしている。 「だいじょうぶですかね?」 「いつものことだ」  早く乗れ、と言われて百瀬は助手席に座る。運転席に座ったまことはシートベルトをかけながらもう、アクセルを踏んでいる。  百瀬は住所を告げた。まことは住所を復唱した。ナビは無い。必要ないらしい。診療のメインは往診なので、地図は頭に入っているのだろう、「近道を行く」と言う。  こんな道があるのか。百瀬は興味深く外を眺めた。一方通行の道も器用に使ってするすると車は進む。  思いがけず、例のガード下の道に出た。老婆に靴を磨いてもらった道だ。  今日も靴磨きの店はない。あれはまぼろしだったのだろうか。あの老婆は亡霊か? 靴を見ただけで見合いの帰りと言い当てたし、こちらの性格も見抜いている。あの老婆は不思議すぎる。魔女かもしれない。 「知ってるか? ここは人呼んで残念ロードだ」  まことはおかしそうに話す。 「ほらあそこ、うなだれて歩いてる男がいるだろう?」  まことが指差す方を見ると、ゆるやかな坂道をカクカクカクと降りてゆくサラリーマン風の男が見えた。以前、百瀬もここをああいうふうにカクカクカクと歩いていた。 「あの男、見合いに失敗したんだな」  百瀬はぞっとする。魔女がここにもいるのか? 「正面にKホテルが見えるだろう? あそこは見合いの待ち合わせ場所としてよく使われるんだ。うまくいった人間はそのあと胸をはって大通りを行く。うまくいかなかった人間は路地裏の道を選ぶ。うそみたいだけど、人間の心理で、本当にそうなるらしい。で、あそこは残念ロードって呼ばれているのさ」  百瀬はなるほどと思った。だから老婆は「どうして見合いにバッジをしないんだ」と言ったのだ。 「猫弁先生、ここは通らない方がいい。見合い失敗男と間違われるぞ」 「はい」  百瀬は肝に銘じた。間違えられるならまだしも、言い当てられるのはもっと辛い。  車は大通りに入り、スピードを上げた。 「そういえば」まことは言いかけて、笑い出した。よほどおかしいことがあったのか、ひとしきり笑うと、「夜遅くに人間の患者を診た」と言う。 「動物病院に人間が?」 「あははは、おっかしいやつらでさ、二人組で、片方は死にそうなのに、元気な方が、金がない! ここで診てくれって言うんだ。動物病院のほうが安いと勘違いしてるみたいで」 「それでどうしました?」  まことは笑い過ぎて涙を浮かべながら話す。 「深い傷で、破傷風の疑いがあった。有無を言わさず救急病院に送ったよ」 「だいじょうぶなんですか?」 「ひと晩点滴をしたら抗生物質が効いて安定したらしい。しばらく入院になるが命に別状はないと病院から連絡があった。それにしても変なやつらで、大阪弁でさ、人間も動物やろ、豚かトドと思って治療してくれ! って。あいつらお笑いの才能がある。でもまあプロは無理だな。プロは笑われるんじゃなくて、笑わせるんだからな。あいつらは天然だ。あんなのが家にひとりいたら、一日の疲れが吹き飛ぶだろうよ」  まことが笑っているうちに到着した。  大きな日本家屋である。門構えも立派だ。ご丁寧に屋根が付いた門から、家の玄関までそこそこの距離がある。 「さすが弁護士。事務所はぼろいが住むとこはすごいな」  まことが感心していると、百瀬は門の呼び鈴を押した。表札には梅園とある。まことはあれっと思った。  玄関が開く音がして、ゲタが鳴る音が聞こえ、中から作務衣を着た男が出て来た。白衣を着たまことを見ると、仏頂面のまま会釈をする。  百瀬は「こちらは獣医のまこと先生です」と梅園に言い、まことには「大家さんです。昼間、猫を預かってもらってるんです」と説明した。  まことは納得がいった。なんとなくだが、百瀬はいい暮らしをしていないという予想をたてている。百瀬とはウエルカムオフィス時代からの付きあいだが、あの立派なオフィスにいた時でさえ、いい暮らしとは無縁に見えた。  しかしまさか築四十年の木造モルタルアパートの六畳一間に住んでいるとは、さすがのまことも思いも及ばない。あのアパートを見れば、この日本家屋のほうがよほど予定調和に近い答えだと感じるだろう。  梅園は作務衣のポケットからテヌーを出した。百瀬の顔がほわっと崩れる。  梅園はまことに訴えた。 「さっき百瀬さんから電話を貰ったときは、もう里親が見つかったかと思ったんですよ。これから探すんですね? 探すのに検査ですか」あからさまに「いっそこのまま引き取ってくれ」と言いたげだ。  まことはテヌーを小さな籠に入れると、「里親を見つけるためには検査も必要なので」と答える。  梅園は作務衣のポケットに両手を入れて、まるで親戚のじいさんのようにづけづけと文句を言う。 「この人、弁護士のくせに規約を守らず、部屋で飼ってるもんだから」 「ご迷惑おかけします」百瀬はすまなそうな顔をした。 「おまけにこんなちっさい子を昼間放りっぱなしで」 「すみませんでした」百瀬はどんどん小さくなってゆく。 「責任感があるんだかないんだか、ちっともわからない人で」 「たしかに」とまことは相槌をうった。そのあとすかさず「おあずかりします」と言って一礼し、話を終わらせた。  ポール・アンカとテヌーと柴犬を乗せた白い車は去った。百瀬は鼻水を垂らしながら見送った。 「さよならポール。幸せになれよ」      ○  今夜は早く帰る必要が無い。思う存分仕事ができる。  九時を過ぎ、野呂や七重はもう帰った。ひとりデスクに向かっていると、「テヌーは今頃どうしているだろう」と思う。パソコンに取り込んだ画像データをモニターで見る。  ふふ、百瀬はにやける。まことの言う通り、この写真では貰い手は見つからないだろう。ただの毛の固まりで、迷彩色だ。サビ猫はジャングルで身を隠すためにこのような柄になったのだろうか。もっとかわいい写真を撮れば、あっさりと里親が決まり、そうなるとお別れだ。  電話が鳴った。 「大福です」  ドキッとした。こんな時間にかかってくることはない。プライベートな会話をしているような気にもなる。 「百瀬です。お世話になってます」と言うと、「ます」を言い切らないうちに返事がぴしりと返って来る。 「今日は早く帰らなくていいんですか」  少し嫌みな言い方にもとれる。 「はい。今日は」  言いながら、百瀬は制約のない生活に戻れたことを喜べないでいた。誰かのために家に帰る必要がある。その制約はあたたかい。今は糸が切れた凧のような気持ちだ。でもひと晩だけだ。明日はテヌーが帰ってくる。再び不自由になる。里親が見つかるまではあたたかい不自由を味わえる。 「今日なら伺えますけど」 「もうこちらは営業時間を過ぎております」  自分からかけておいて、営業時間を過ぎているってどういうことだろう? 「明日の三時ですけど、百瀬さんお仕事抜けられますか」 「ええ、一時間ほどでしたら」 「ではKホテルのロビー横のティールームで」 「作戦会議ですか」 「お見合いです」 「え? 明日?」 「先日写真をお見せしましたよね。それで百瀬さんはOKでしたよね」 「喪黒福子さんですね。はい、でも、急ですね」 「一色《いっしき》むつみさんです。急ですが、なにか?」 「いえ、問題ありません。一色さん。わかりました。それであの、なにかうまくいく方法を伝授してくださいますか?」 「ご自由に」 「え? あの」 「バッジはしたほうがいいと思いますよ」 「はあ」 「明日はわたしも同席します」 「え?」 「百瀬さんがなぜ三十回も断られたか、どうにも腑に落ちませんので、拝見させていただきます」 「お仲人さんみたいに、立ち会ってくださるんですか?」 「いいえ、隣のテーブルで、他人のふりをして聞き耳を立てています。あなたの話し方や態度をチェックさせていただき、どこに問題があるか、見つけます。そこから今後の対策を練っていきましょう」 「今後?」 「次の方とのお見合いに活かすのです」 「それではなんだか一色さんは練習台というか、まずは成立しない前提でおっしゃってませんか?」 「はっきり申し上げて、百瀬さんと一色さんの相性はよくありません。わたしの長年の経験で言わせてもらえばおそらく成立しないでしょう。この話は別の職員からの強い希望で、つまり、一色さんの担当者があなたを選んで、ぜひ会わせたいと言うのです」 「わたしを? ぜひにと!」 「わたしとしては、あなたにこれ以上無駄骨を折らせたくないですし、お断りしたかったのですが、先日一色さんのお写真をお見せしたら、あなたも会いたいとおっしゃるので、会わせないのも変ですし」 「はあ」 「せっかくなので、この機会を利用して今後の対策のヒントにすることにしました。わたし、あなたの結婚が成立するまでしっかりサポートさせていただきます。研究を惜しみません。それと、一色さんはわたしの顔をご存知ありません。わたしは覆面チェッカーです。あなたもわたしに挨拶したり目を見たりしてはいけません」 「わかりました」 「わたしは友人とお茶を飲んでいます。ひとりだと怪しまれますからね。ただの友人ですからお気になさらず」  仕事を終えると百瀬はまことが教えてくれた近道を通って帰ることにした。 「通るなよ」と注意されたガード下にも行ってみた。夜十一時を過ぎて、昼間よりもむしろ明るく、人通りがあった。近くにおでんの屋台が出ており、一杯やっているサラリーマンがいる。  早く帰るのが苦手な人種が少しでも長く外にいようと、こうして寄り道をするのだろう。百瀬ははんぺんを一枚食べて行きたかったが、満席なのであきらめ、通り過ぎるところで気がついた。 『くつみがきます』と書かれた看板だ。ゆるやかな坂をのぼり切った先の、大通りに出たところにそれが見える。あわてて走って行くと、たしかに靴磨きの店があるが、例の老婆ではない。違う、と思ったところで目が合った。  こぢんまりとした男で、ニット帽で髪の色や分量は見えないが、中年より上で、老人にしては新人に見える。あの老婆よりは若そうだ。  目が合ったからには頼まないといけない気がして、「磨いてもらえますか」と言うと、男は顔中しわだらけにして「へえ」と言った。笑いじわではなく、口を動かすだけで顔中にしわができる、乾いた皮膚を持つ男だ。  靴磨きは客商売だ。愛想がよいのが当然で、軽口をたたくものという先入観が百瀬にはあった。ところが男はしゃべるのが苦手なようで、ただむすっと椅子を差し出し、自分の前に台座を置き、ひとこともしゃべらない。ひょっとすると、不況で職を失い、この仕事を始めたばかりかもしれない。そんな不慣れな人間にサクライ印の靴を磨かせて大丈夫だろうか? 不安だけれども、台座を差し出されたら、足を置かねばなるまい。  百瀬の靴を見て、男はハッとした。そしてつくづくとそれを眺めた。やがて軍手をはずし、素手で靴の表面に触れ、マッサージでもするようにそうっとなでた。 「これをどこで?」男は言った。 「新宿のデパートです。まだ買ったばかりなのですが」 「作られたのが去年の十二月ですからね」  言いながら男は軍手をはめ、百瀬のズボンの裾を二つ折りにすると、靴と靴下の間に厚紙を当てた。ここまでの作業は老婆と同じだったが、男は水をかけなかった。まずきれいにほこりを拭き取ると、布に油を染み込ませ、たんねんに磨いていく。老婆ほどすばやくはないが、いかにも慣れた手付きだ。本職なのだろう。 「以前、あのガード下でおばあさんに靴を磨いてもらったんですけどね」  男は相槌を打たず、ただ作業を続けている。 「その人、靴に水をかけたんですよ」  男は作業をとめ、ちらりと百瀬を見た。  百瀬は無視されてないと感じ、話しやすくなった。 「この靴じゃないんですけどね。革靴に水をかけるなんて、ありですか?」  男はぼそぼそとした声で、それでいて的確に説明した。 「革は生きものですから、水分が必要なときもあります。よほどくたびれている状態では最後の一手として水をかけることもあります」 「そうなんですか」百瀬は納得した。「自分でもやってみるかな」  男は首を横に振った。 「おやめなさい。普通はしませんよ。下手すると革がだいなしになってしまう。よほど革をわかってないと、その手は使えません。ですが今どきそんなことができる人間がいるとは驚きです。わたしが知ってるのはひとりだけです。それができるのは」 「じゃあわたしがやってもらったのは、その人だったのかな」 「いえ、それはないです。もうお亡くなりになったので。それにその人が靴磨きをしていたのは大昔のことですから」  百瀬は話をもう少し聞きたかったが、男はそれきり黙ってしまった。靴はあっという間に買いたての状態に戻った。老婆が磨いてくれた靴のもう片方も、この男に頼めば見違えるかもしれない。  料金を払った。八百円だ。一日に何人の客がきて、この商売が成り立つのだろう。 「毎日この時間ここにいらっしゃいますか」 「まだ決めていません。この商売を始めたばかりで、定位置がないんです。日によって場所を変えて、どこがお客が多いか、様子を見ているのです」  百瀬は驚いた。たしかに無口で、客商売らしくはないが、靴の扱いはたしかなものだ。百瀬は男の道具箱を見た。すると木の蓋に『桜井』と焼き印が入っている。サクライ。  そういえばこの男、この靴を見ただけで、製造年月を言い当てた。 「あのあなた、桜井さんとおっしゃいますか?」  男は百瀬を見上げ、静かに目を細めた。 「わたしの最後の作品です。手入れをすれば十年は持ちます。適切に修理をすればその倍は持ちます。どうか大切に履いてやってください」      ○  ガラスの向こうに日本庭園が見えている。それはどこか現代的に見える。なにがどう現代的なのか春美にはわからない。亜子にはわかる。 「いい? 植わっている木は日本的だけど、配置がアシンメトリーになってないの。デザインは西洋風で、そこにいかにも和風なものを植えているの。なんちゃって日本庭園なのよ」  百瀬からの受け売りを亜子はわが知識のごとく披露する。  春美はふーんと興味なさそうに、ストローの蛇腹《じゃばら》を伸ばしたり縮めたりする。アイスティーが千五百円だなんて信じられない。しかも経費で落ちない。見合いを観察しようと言い出したのは自分だけど、ここは先輩である亜子が太っ腹なところを見せて払ってくれないだろうか。  Kホテルのロビー横のティールームはゆったりしたソファに小さな丸テーブル。平日の午後なので、西洋人のビジネスマンが商談をしていたり、羽振りの良さそうなミセスたちがつどっておしゃべりを楽しんでいる。  亜子はきょろきょろと視察する。かしこまってしゃべっているスーツ姿の男女がいる。商談かもしれないが、今風の見合いかもしれない。なんちゃって日本庭園を歩くカップルもいる。ライバル社が仲介したカップルかもしれない。  亜子と春美の隣のテーブルは予約席になっている。約束の三時にあと五分あるが、あと五分しかないとも言える。一色むつみも百瀬もまだ現れない。 「一色さんは十五連敗なのね。わたしのことは言ってないでしょうね」 「ええ、覆面チェックしますからと言って、大福先輩のことは友人と言っておきました。相手の担当者まで来ていると、プレッシャーですからね」 「こっちも同じ。あなたは友人だと言ってある」  亜子はさっぱりとした水色のシャツに、紺色の膝丈のスカートを穿《は》いている。ひねりも色気も無い服だ。  一方、春美は薄いピンクのやわらかなブラウスに、白地に赤い水玉模様のフレアースカートを穿いている。豊かすぎる体を膨張色で包み込み、いつもの制服姿よりよほど太って見える。 「やっと研修が終わって最初の担当が一色さんですよ。十五連敗した会員を後輩に引き継ぐなんて絶対イジメだと思う。幸坂《こうさか》女史、大嫌い」 「成立しなくても自分のせいじゃないって思えて、いいじゃない。気楽に考えればいいのよ」 「成立しますよ」  春美はズズズとアイスティーを飲み切った。 「わたし、先輩みたいに経験はないけど、自分の理論に自信あります。十五運敗女と三十連敗男、相性ばっちりですよ」 「どこが合うと思うの?」 「どちらも一方的に相手から断られているんです。断った経験は皆無です。どちらも断らない。つまり成立します」  亜子はあっと小さく叫んだ。  春美は口にグラスを直接つけて傾け、氷を口にすべりこませた。ころころと口の中で氷をもてあそびながら話す。 「データ主義です。人間を見ずに数字を見るんです。我が社の方針は人間を見る、でしょう? それで結果を出せない人は、その逆を試してみないと」  亜子は思う。この太った新人はあなどれないと。いつか成婚率で社内どころか業界トップをいくかもしれない。さっさと独立し、別会社を立ち上げ、手強いライバル関係になるかもしれない。  となりのテーブルに女性が座った。こぶとりで、おたふく顔だ。一色むつみである。春美から言われているのだろう、目を合わせない。  三時を五分過ぎている。百瀬はまだだ。  亜子は自分の担当会員が遅刻をしたことで、春美に点を稼がれたような気がした。  あまりあからさまに見る事はできないが、見える範囲で観察する。むつみはグレーのサマーニットのワンピースを着ており、ふくよかだが、春美の隣にいると小柄に見える。年齢は三十五と聞いているが、四十五くらいに見える。なにがどうとは言えないが、全体に負のオーラが出ており、人生に疲れきっているように見える。はじめからこうなのか、十五連敗でこうなったかは不明だ。  むつみはクリームソーダを注文した。亜子は注文を聞いて好感を持った。根拠はあいまいだけど、素直で愛らしい女性なのではないか。そう感じたのだ。  クリームソーダが来る前に、むつみはおおぶりの黒いバッグから煙草を一本出した。これには亜子も春美もぎょっとした。春美が何か言おうとするのを亜子は人差し指を横に振って止めた。覆面は覆面を通さねばならない。  むつみは煙草に火をつけ、吸い始める。すると十歳若返った。実年齢に匹敵するつややかないい顔だ。疲れたように見えたのはニコチン切れだったのだ。  ウェイターが走ってきてむつみにささやく。 「お客様、パウダールーム横に喫煙ルームがございますので」 「お気遣い無く。携帯灰皿持ち歩いてます」  そう言ってむつみはバッグから出してみせる。てのひらにおさまるサイズの財布のような灰皿だ。  ウェイターは笑顔を残したままきっぱりと言った。 「ここは禁煙です」  こういう察しの悪い客には婉曲な表現は通じないのだ。  むつみはやれやれとためいきをつき、吸いかけの煙草を名残惜しそうに財布灰皿にしまった。  隣のテーブルで亜子と春美は目を見合わせる。なるほどこういう女が十五連敗するのだとふたりは納得する。  覆面チェックはナイス結婚相談所のシステムにはない。しかし、当事者の話だけでは問題を見つけられないというのが春美の考えだ。問題は本人が気付いてないからこそ問題なのであって、本人の口からいくら報告を受けても、それは問題解決につながらないと主張する。  亜子は入社以来会社の方針に従って仕事をし、それなりに良い結果を生んでいるので、この意見を聞いた時は、どういうものかと思ったが、ほかの同僚よりもほんの少し、頭が柔らかかった。一度は春美の試みにつき合って、効果を確かめるべきだと思ったのだ。社員同士、外で会ってはいけないので、今日の試みは会社には内緒だ。  亜子は時計を見る。もう三時を二十分過ぎている。すでにむつみはクリームソーダのクリーム部分をスプーンですくい始めている。百瀬は自分で無遅刻と言っていたが、案外、遅刻魔なのかもしれない。  再びさきほどのウェイターがなにやら困った声を出している。今度はティールームの入り口付近で、困った客とやりとりしているようだ。 「お客様、困ります」 「すみません、でも、約束が」 「ほかのお客様のご迷惑になりますので」 「外へ出しませんから」  亜子も春美もむつみも入り口を見る。西洋人のビジネスマンもスーツを着たカップルもそのティールームにいる人間はみな入り口を見た。  時代錯誤の丸めがね、貧相なスーツに身を包んだ男が、女性が持つタイプの籐製のかごを持ち込もうとするのをウェイターに止められている。  百瀬太郎である。  亜子は驚いた。驚いて、迷った。何やってるのと叱りつけたい。しかしここで出ていくと覆面でなくなる。やきもきしていると、こんどは春美が人差し指を振って亜子を制する。でも、緊急事態である。もう今日の予定はパーと判断しよう。腰を浮かせたその瞬間、隣の席の女がいち早く駆け出した。こぶとりだが瞬発力はすばらしい。 「百瀬さんですか?」息を切らしながらむつみは言った。 「はい。一色さんですね? すみません、大遅刻です」 「どうかしたんですか?」  百瀬はかごを持ち上げて見せた。むつみが顔を寄せると、籐を通して黒っぽい毛のようなものが見える。 「猫?」 「ええ。ちょうど事務所を出るタイミングにこいつが病院から戻って来て、事務所に置くわけにもいかず、連れてこないわけにはいかなかったので」 「百瀬さんの猫?」 「いいえ」 「じゃあどなたの猫ですか」 「これから誰かの猫になるのです」  むつみはふうん、と顎を上げ、百瀬を見た。事前に写真で確認した通り、髪は天然パーマなのだろう、癖っ毛が額にかかっている。丸い黒ぶちめがねに、安っぽいスーツを着ている。襟にはバッジがある。担当者が言ったように、弁護士のようだ。靴だけ妙にきちんとしている。めがねとスーツと靴のみっつを材料にしても、百瀬という人間の思想はわからない。ばらばらだ。 「ここ、煙草もだめって言うんですよ」  むつみはいやみったらしく言った。そばにいたウェイターのこめかみがぴくっと動く。 「いっそ、外に行きません? 煙草も吸えるし、かごの猫もいい空気が吸えるわ」  そう言ってむつみは日本庭園を指差した。すると百瀬はぱっと明るい顔になる。 「いいですね。あの庭園、前から気になっていたんです。造りがおかしいんですよ。造園として一貫性が無く、思想が足りない造りなんです。それが狙いなのか、あるいはホテルの無知なのか確かめたくて、いつかよく観察しようと思っていました」  ウェイターはこめかみをぴくぴくさせながら百瀬とむつみに言った。 「お代は結構です。どうぞ、お庭のほうでお楽しみください」  亜子と春美はガラス越しに庭園を眺めている。  薄曇りの空の下、百瀬とむつみはなにやら話しながら歩いている。百瀬の手にはかごがある。むつみの手には吸いかけの煙草がある。はたから見ると男女が逆のようでもあるが、ふたりは意に介さないように、堂々と、話し込んでいる。  百瀬はつい早足になるのを押しとどめて、慎重に速度を女性に合わせているようだ。「女性と歩く時は速度を落として」という亜子の指導に忠実に従っている。 「いったい何を話しているんですかね?」春美は言った。「これでは全然チェックできませんよ」  亜子は窓の外を睨むように見たまま、「まさか猫を連れてくるとはね」とつぶやく。  それを聞いて春美も全くだ、というふうに頷く。 「三十連敗男、時々そういうことしてるんですかね? 母親連れて来る男がいるって聞きますけど、猫連れてくる男なんて聞いた事がない」 「あいつは猫弁って呼ばれてるのよ」 「猫弁? なんですかそれ。猫を持ち歩く弁護士?」  亜子はまさかというふうに苦笑いをする。 「まあいろいろあって。そういうあだ名なの。もちろん、プロフィールには書いてないし、わたしがそのあだ名を知ってるなんてこと、本人は知らないけどね」 「さあすがぁ。担当会員の調査、行き届いてますね。わたし、一色むつみのあだ名なんて知らないし、まだまだ勉強不足だな。少し調べてみようっと」  亜子はすっかり冷めてしまった珈琲を少しずつ口に含む。一杯千五百円の珈琲のひとくちぶんはいくらかしら。 「彼にはいろいろ注意してきたんだけど、猫を同伴してはいけませんとは注意しなかった。わたし、ウカツだと思う?」 「縄跳びしながら見合いしないように、なんて、いちいち注意してられますか?」  とってつけたようななぐさめだが、亜子は素直にうれしく思う。 「ありがとう、春美。ここはあたしが払うから、ケーキ食べていいよ」  亜子が言い切る前に、春美はウェイターに向かって手を挙げた。 「西洋人は自然を凌駕《りょうが》して組みふすというやり方で文化を栄えさせてきました。ベルサイユ宮殿の庭はそれを顕著に表しています。一方、日本人は自然を手本にして取り入れるという方法をとってきました。ですから日本庭園は自然に近い形で、左右非対称ですし、曲線を活かします」  話しながら百瀬はこの日本庭園がいかに西洋風かを説明する。  むつみは煙草を吸うのに忙しく、無口だったが、体にニコチンが行き渡って元気になったのだろう、煙を鼻から吐き出しながら話し始める。 「ベルサイユ宮殿なら行ったことありますよ。あそこも禁煙で、落ち着いて眺める事ができませんでした」 「世界遺産ですからね」 「ルーブル美術館も禁煙でしたよ。ドラクロワの勇ましい女神、ゆっくり煙草を吸いながら鑑賞したら、感動も十倍だったと思うわ」 「ニコチンの脳内ドパミン神経系機能に与える影響は」 「もう最近では旅行も億劫で。飛行機は完全禁煙でしょう? 地獄の沙汰ですよ。高いお金を払って空の上で地獄を味わうなんて、まっぴら」 「飛行機と言えば佐藤園《さとうえん》の社長が」 「そう、佐藤園。あの社長は愛煙家の間ではちょっとしたヒーローです。飛行機での禁煙時間が苦で、ついに飛行機を買ってしまったという。自家用飛行機で煙草の煙に包まれて旅行。いいなあ、買いたいなあ、わたしも」  百瀬は相槌を打つのをやめ、聞き手にまわった。むつみは話し始めると勝手に話しており、相槌は要らないようだし、第一飛行機を購入できる甲斐性が自分にはない。  三十分後、百瀬はKホテルをあとにしてひとり大通りを歩いていた。  ガード下は絶対通らないと決めている。今日は見合い相手に逃げられることもなかったし、あからさまな失敗はしていないと思う。  ガード下へ通じる道と交差するところで、いったん止まり、目をこらして見た。老婆はいない。桜井もいない。残念ロードは残念なだけに、靴磨きの客が少ない場所なのだろう。  にゃあ。かごの中からテヌーの声が聞こえる。早く事務所に戻ってトイレをさせてやらないと。水も飲ませてやりたいと。百瀬は歩を進めようとした。 「百瀬さん!」  かなり遠く、後方から声をかけられた。振り返ると大福亜子が走ってくる。百瀬の歩が早すぎて追いつけないと思ったのか、あたりはばからぬ大声を出している。  亜子は追いつくと、はあはあと肩で息をし、何も言えないようだ。  百瀬は私服の亜子を見るのは初めてだ。が、あまりにあっさりとした服で、代わり映えしないため、いつもの担当者にしか見えない。とりあえず、謝った。 「すみません、結局なかに入れなかったので、覆面チェックできませんでしたね」  亜子は息を整えてから、やっと話す。 「わかったことはあります。あなたは遅刻をして、猫を同伴した」 「これはその」 「はっきり言って、今回のお相手のお返事は聞かずとも明らかです」 「そうでしょうか」 「あたりまえです。一応、百瀬さんのお返事を伺っておきましょう」 「もちろん、またお会いしたいです」  亜子はあきれたような声で「いいんですか? 一色さんで」と詰め寄った。 「ええ、またお会いしたいです」 「ヘビースモーカーですよ。マナーもなっていません」 「わたしは猫を連れて行ってしまいました。マナー違反です。お互いに短所を見せ合った形になったので、もしそこが嫌でなければ、うまくいくかもしれません」  にゃあ、とテヌーが鳴いた。百瀬は「すみません、急いで事務所に戻らないといけないので、またお電話ください」と、もうそそくさと歩き出す。  亜子は腕組みをして仁王立ちで百瀬の後ろ姿を見送る。  とそのとき、「先輩!」と叫びながら、春美が走って来る。「待ってくださいよ、おなかたぷたぷで走れない」  鈴のような声だ。百瀬は思わず振り返り、声の主を見た。  亜子の二倍はありそうな太った体をゆらしながら、茶色い髪の女が歩くように走ってくる。 「お会計しないで行っちゃうんだもん、わたし、払っておきました」  女は亜子に向かってぶうぶう言っている。  百瀬はふたりに背を向け、再び歩き始めた。  テヌーにご飯もやらなくてはいけない。今日はとりあえず見合いは遂行されたし、六番室の鈴虫にも会えた。意外な姿だったが、なにかこう、すとん、と納得できたような感じだ。  ジグソーパズルがあと一枚で完成する。そのような感慨があった。最後の一枚は一色むつみなのだ。彼女からイエスの返事をもらい、自分もイエスと返事を返す。  ジグソーパズルが完成する直前の、一瞬の達成感と、瞬時におしよせるどこか寂しい感じが百瀬の胸の内にはあった。      ○  億ションという言葉が一時期世間でよく使われたが、今でもその言葉はあるのだろうか。言葉は消えたとしても、実物は存在している。  百瀬はエレベーターで上昇しながら、1、2、3、と移動するオレンジ色の表示を眺めていた。背後はガラス張りで地上が見下ろせるしくみだが、百瀬は高い所が苦手だ。同じ法曹でも裁判官は無理だと思う。あんなに高い場所から人を見下ろすのは絶対に嫌だ。  数字を眺めながら、昨夜かかってきた電話を思い出す。 「百瀬くん、どう? 元気にやってる? 独立してやっていけるなんて、君はつくづく優秀だよ。ぼくなんて結局、チームワークでしか仕事をこなせないからね」 「秦野さんは独立なさらないんですか」 「しかたないよ、できないんだ。そんな器ではない。実を言うと、次期所長にという話もあってね。もうぼくはウエルカムを背負っていく立場なんだよ。君とは器が違うんだ」  どちらの器が大きいと言いたいのか、秦野という男はもともとそういうあいまいなところがあって、相手が怒ると右に逃げ、相手が我慢する限り左を主張するような、常に逃げ道を確保している、そんな如才《じょさい》なさがある。百瀬はそういう相手に対してはただもうしゃべらせて、自分は生返事をすると決めている。 「ニューヨークにオフィスをもうひとつ作る話もあってね。来年はまずそこで所長をして、数年後銀座に戻ったらウエルカムの所長だ」 「はあ」 「なにかあったら言って来なさい。今は無理だけど、所長になれば力も貸せよう。悪いようにはしないよ。あ、そうそう、例の靴会社の件はどうなった?」 「相手の出方を待っているところです」 「あの社長、バカだよな。バカの浅知恵、てやつだ。やらせの葬儀でカラの柩を盗まれるなんて、スリがスられるみたいなポカをした。あんな話、顧問弁護士のぼくが相談にのれるわけないだろう? まあ、うまくやっちゃってくれたまえ。君も着手金で少しは楽になったろう?」  秦野は恩を着せるような言い方をして、電話を切った。自分が頼んだシンデレラシューズの一件が気になっているのだろう。  あのやらせ葬儀を指南したのは秦野ではないか。百瀬はそう推理している。ああすれば、役員会議を通さなくても、会長から社長にすべての決定権が移譲されたと、社内外に広報できる。その後の経営がスムーズに運ぶ。  最上階に着き、ドアが開いた。幅の広い廊下を歩きながら、襟のバッジを確認する。するとスーツの肩に糸くずが付いているのが見えた。手を伸ばしてつまむ。とれると思った糸くずは、実はくずではなく正真正銘の糸で、肩からつーっとつながって、ほろほろと面白いようにホコロビが大きくなった。  百瀬はあきらめて指を放す。糸は悲しげにたらりとたれた。 「管理組合は何と言ってます?」  野口美里は百瀬の顔を見るなり言った。挨拶は無しだ。  床も壁も大理石でできている玄関で、百瀬は靴を脱いだ。すると靴下の先に小さな穴が開いている。あわててスリッパを履く。  美里は腕組みをしたまま百瀬を見る。この男、信用できるか? しかし来てもらったからには、部屋に通さねばならない。疑いながらも、リビングに案内する。  常に一流のものに囲まれていないと気が済まない美里は、こんどの一件をまず実家に出入りしている馴染みの弁護士に相談した。すると「ペット問題では腕のいい弁護士がいます」と名前が挙がったのが百瀬太郎だ。 「なにせ世田谷猫屋敷事件を解決した男ですよ」と言われても、ピンとこない。掃きだめのような屋敷に住むゴミのような人間と、氏素性のわからぬ病気持ちの猫など、社会から一掃されてしかるべきで、美里にとってはどうでもいい、地球の裏側で起こっているダークファンタジーのようなもので、そこに同情も感動もない。  しかし、あくまでもペット問題ではスペシャリストという話だし、一流だとしつこく太鼓判を押すので、とりあえず事務所を訪ねてみたわけだ。  ところが、事務所のドアは妙な黄色だったし、出されたお茶は香りもしない。ドアよりも本人はさらに奇妙で、古びためがね、前髪と言ったらアイロンをかけたいくらいの癖っ毛だ。話し方にも重厚さが感じられない。こうして部屋に呼んでみると、上着の肩はほころびているし、靴下には穴が開いている。  スペシャリストならば儲けていないとおかしくないか? こんな頼りない人間で大丈夫だろうか? でも玄関にある靴は本物だ。最高級の希少な靴である。  チンチラゴールデンは、部屋の中で一番目立つゆったりとしたソファの中央に、油断全開でだらりと横たわり、顔だけ侵入者を見つめている。そこが指定席なのだろう。客に席を譲る気はないらしい。  美里は猫に声をかけようとしてやめた。気高い血筋の上等な猫だからだろう、話しかけても反応しない。比べ夫ときたら、こちらが何か言うたびにいちいちがあがあと言い返してきて腹立たしい。育ちが卑しいものの特徴だと、美里はつくづく嫌になる。  生まれの良い自分は生まれの良いこの子と気高い人生を送るのだと決めている。  百瀬は一人がけソファに座った。この猫はあいかわらず不機嫌な顔をしているなぁと百瀬は思う。そもそもチンチラという猫種は不機嫌な顔つきだが、中には素直そうな、きょとんとした顔の個体もある。しかしこのチンチラは血統書付きの純血中の純血のせいか、不機嫌度が高い。ペット不可のマンションに不満があるのかもしれない。いや、ペットが飼い主に似ると言う説が本当ならば、ペット解禁になりそうな気配に腹を立てているのかもしれない。  百瀬は資料を開いて美里に見せた。 「規約改正は住民の三分の二の合意があれば認められると書いてあります」 「なんですって?」  美里はチンチラの隣に座った。チンチラはまばたきもしない。 「先月の集会に出席した住民は全体の二分の一です。投票の結果、出席者の三分の二が改正案に賛成しましたが、欠席者の委任状を足しても、住民全体の三分の二には達しませんでした」 「え? どういうこと? わかるようにおっしゃって」 「えーと」 「つまり?」 「今回は改正されません。規約はペット不可のままということです」 「今回はって、なんなの? 規約は永久でしょう?」 「ですから、住民の」  そこまで言って百瀬は少し間をおいた。別のアプローチを試みよう。 「野口さんは集会に出席しました?」 「ふん、あんなもの、暇人が出るものでしょう?」 「では、欠席届と委任状は提出しましたか?」 「なんです? それ」 「集会に不参加の場合はそうやって手続きをしないと。集会前にお知らせが各戸の郵便受けに配付されるはずですが」 「管理組合の配付物なんていちいち読んだりしませんわ。そもそも書類やなんかはあなたたち弁護士の仕事じゃなくて? 着手金を払ったんですから、委任状を書いてくださってもいいんじゃなくて?」  百瀬は再び黙った。そして天井を見た。シャンデリアがまぶしい。前頭葉に酸素が送られているだろうか。三十階って、酸素がやや薄いのではないか。 「ご主人はこのことについてなんておっしゃっています?」 「主人に関係あるんですの?」 「まずは意見書という形で管理会社に規約を改正しないでほしい旨を伝えます。管理会社に正式に申請する場合は、登録されている世帯主の名前を使いますから、ご主人の同意が必要です」  美里はなにか考えているようだ。黙っているとつくづく、ソフィア・ローレンに似ている。強い意志を表す骨張った頬と高い鼻、その大きな瞳の奥には意外にも女らしいかわいげのようなものがちらちらと覗いている。映画『ひまわり』のソフィアは瞳の表す通りけなげな女性だったが、美里は今のところ高慢で身勝手なだけの女性に見える。 「このマンションは主人名義で購入しましたけど、実際はわたしがお金を出しましたし、住んでいるのも実質わたしとこの」 「シルビーヌ・アイザッハ・シュシュちゃん?」  美里はぱっとうれしそうな顔をした。 「ええ、そう。主人は未だに発音できませんわ」 「長いですからね」 「覚える気がないんですの」  美里は目を伏せた。まつげが長い。  珈琲をいれてくるわと言ってキッチンへ消えた。しばらくすると、エスプレッソマシンのスチーム音が聞こえて来る。かなりの騒音だが、相変わらずチンチラは無反応であくびなぞしている。  一階の管理事務所で借りてきた契約書に目を通すと、やはりこの部屋は夫名義になっている。野口進と記載がある。進。百瀬は大河内進を思い出す。犯人からまだ次のアプローチはないらしい。  良い香りとともに美里は現れた。エスプレッソは濃く、香り高く、本格的で、飲んでみると、百瀬の胃を刺激した。目も脳もすっきり、しゃきんとしたように思う。 「主人はここには来ません」 「来ない?」 「帰らない、という言い方の方が正しいかしら。仕事が忙しくて、会社に近い別宅から通っていますの」  美里はいかなる邪推も排除するような乾いた声で話した。 「近々お会いする機会はありませんか? 意見書に目を通していただき、判をいただければいいのですが」 「もう半年、顔も見てません。ふふ」急に美里は笑い出した。「先日久しぶりに電話があって。来てくれとかなんとか、むこうが言い出したんですけど、シュシュのこの、そう、この問題でお宅の事務所に行く予定もあったし、いろいろ考えて、ドタキャンしちゃったわ」 「半年ぶりなのに、良かったんですか」 「いいんです。行きたくなかったんですわ。あんな抹香《まっこう》臭いところ」 「抹香臭い?」 「葬儀でしたの。わたし、お坊さんって大嫌い。仏教ってなんであんなに辛気くさいんでしょう? 絶対教会がいいって言ったのに、そうもいかんとか、融通がきかないんですよ」 「葬儀? お身内ですか?」 「もう一杯いかが?」 「いえ」むしろ牛乳が欲しいと百瀬は思った。こんな濃い珈琲を二杯も飲めるわけが無い。乳製品で膜をはり、胃壁を保護したい。 「遠慮なさらず。イタリアから輸入したばかりのマシンで、試したいんですよ」  美里はキッチンに消えた。大型ダンプのタイヤがパンクしたようなスチーム音が鳴り響いたが、チンチラは眠ったままだ。 「失敗だったんですよ」  二杯目のエスプレッソを差し出しながら美里は言った。 「は?」  百瀬はカップを見た。失敗? さらに濃かったらどうしよう。 「結婚失敗。あんなつまらない男とどうして結婚してしまったのかしら。あんまり熱心だったものだから、主人が、わたしに。ソフィア・ローレンに似ているとかなんとかうまいことを言って」  ついさきほど邪推を排除するような口調だったのに、今いきなり本音を語り始めたことに、百瀬は不思議な思いがした。 「ソフィア・ローレンに似ていますよ」  百瀬は心からそう言ったが、美里は苦々しい顔をした。 「今思うと、うちの財産が目当てだったんですよ。わたしの祖父が財産家で、父からわたしにそっくり遺産が引き継がれる予定でしたからね。あの人、一人息子のくせに快く婿養子に入ってくれました。わたしは有頂天になって、それを愛だと勘違いしていました。あの人は小さな会社の社長の息子で、自分の代で規模を大きくしたくて、わたしと結婚したんですわ。社長になる準備として、わたしという金庫を用意したんです。ところがわたしの父が慈善活動にはまって、財産の半分を使ってしまい、わたしたちの新居もこんな集合住宅になってしまったんです」  百瀬はこのような億ションを集合住宅と言い放つ美里の育ちを想像した。城のような家に生まれたのだろう。だからこれでも落ちぶれたと思っていて、それが正直な感慨なのだろう。 「あの人の思惑ははずれたんです、それに」 「それに?」 「マザコン男はだめね」 「マザコンなんですか?」 「ええ。母一人子一人で育ったせいか」 「あまやかされたんですか?」 「いいえ、あの人の母親は女手ひとつで会社を起こし、厳格で、特に息子にはグサグサと、厳しい意見を言う人です。同居? したことありません。姑《しゅうとめ》は質素な家に住んでいて、ケチな人でした。主人はもうしょっちゅう、母親に反抗して、わたしに悪口を言うんです。おふくろのやり方にはついていけないと。常に母親の影があって、越えよう、倒そうと思ってるなんて、異常だわ。ベタベタするよりよほど強い本物のマザーコンプレックスよ」  美里はチンチラをそうっと抱き上げ、膝の上に置いた。チンチラはいやがる様子もなく、されるがままになっている。 「母親が会長になって、あの人が社長になったけど、役員たちはみな会長を信頼してましたわ。八十過ぎても頭が冴えてて記憶力も発想力も敵う人はいない。スーパーウーマンなんですよ。あの人、ずっと苦しんでいました。そしたらついこのあいだいきなり。おふくろの葬儀に出てくれ、ですもの。一瞬、殺したのかと思った」  百瀬は天井を見た。脳を活性化したのち、こう言った。 「同意書はわたしがいただきに参ります。ご主人の会社名を教えていただけますか?」  美里はほほほと笑った。 「あなた履いてらしたわよ。サクライのあの靴、高かったでしょう?」 「それではやはりシンデレラシューズの」 「ええ、主人は旧姓の大河内で社長をしています。戸籍名は野口進。ではすべてお願いしますわ」  話を終え、百瀬は玄関に向かった。それにしても広い。玄関だけでも百瀬の六畳間よりはるかにでかい。  美里は思いのほか角がとれて、チンチラを抱きながら百瀬を見送るため立っている。百瀬はサクライの靴を履いたあと、振り返って言った。 「シルビーヌ・アイザッハ・シュシュちゃんは耳が聞こえないって、気付いてました?」  美里は驚いた顔をした。思いも寄らない、という表情だ。 「心配ないですよ。猫はけっこう多いんです。聞こえなかったり、難聴だったり。外で暮らすには不便ですが、室内では問題ないですし、人間が思うほど猫は困っていません」  美里は呆気にとられたままチンチラを抱きしめている。 「目を見て話しかけると反応がありますが、遠くで呼んでも答えないのは、あなたを無視しているわけではなくて、単に気付かないだけです。こちらが音を立てても起きないし、おっとりとして、ペットとしてはありがたいところもありますよ」  百瀬はチンチラの頭をそっとなでた。チンチラはにぃ、と鳴いた。      ○  大福亜子は七番室の定位置で腕組みをしている。  腕時計を見る。七時を五分過ぎている。パソコンのモニターには百瀬の顔写真が表示され、髪型が七三分けになっている。亜子は腕組みをほどき、マウスを操作した。すると百瀬の髪型は一瞬にしてアフロヘアになった。アフロヘアに黒ぶちの丸めがねは痛々しい。しかも弁護士バッジをしている。再びマウスを操作すると、今度はひとすじの迷いも無い白髪となり、次なる操作によって、頭頂部がむきだしとなった。亜子は再び腕組みをし、首をかしげる。  ノック音がして、百瀬が入室した。 「すみません、なかなか片付かなくて」  百瀬が挨拶代わりにあやまると、亜子は顔をしかめて、「あなたが片付かない?」と言った。  百瀬がうろたえている間に、「ジョークです」と亜子は言った。  静かな時間が流れた。亜子が何も言い出さないので、百瀬は納得した。 「わかりました。だめだったんでしょう? いつものことです」  すると亜子は、苦い薬を口に含んでいるかのような表情で、言った。 「こちらが一生懸命やってるのに、なんですかその態度は。ばかにしてますか?」 「え?」 「OKだそうです!」  百瀬はおどろいた。結果にもだが、亜子の剣幕《けんまく》におどろいた。 「聞こえてます? 一色むつみさん、また会いたいそうです」 「それは、それは」百瀬は感無量というふうに「うれしい」と言って、片手で小さくガッツポーズをした。 「で?」亜子は詰め寄る。 「で? と言いますと?」 「あれから一週間経ってますので、もう一度百瀬さんのお気持ちを確認しませんと」 「それはもう」 「ヘビースモーカーで礼儀知らずな一色さんでいいんですね?」 「そういう言い方は少しどうかと」 「あとで文句をおっしゃられても困るので」 「もちろんわたしも一色さんとまたお会いしたいです」 「なぜ会いたいのですか?」  そう言われて、百瀬は天井を見た。亜子の剣幕に押されている。 「なんだか今日の大福さん」言いかけて飲み込む。 「はっきりおっしゃってください」と亜子が言うので、百瀬は思い切って「キリキリしてませんか? 少し、厳しいような」と言ってみた。  すると亜子はきっぱりと言った。 「整理中ですから!」  百瀬はびっくりしてキャスター付きの椅子でスーッと後ずさる。狭い部屋なので、後ろの壁にガツンと背もたれがぶつかる。丸めがねが鼻先にずれた。  亜子はあきれた。 「ココロの整理中という意味です。今、変な想像しませんでした?」 「し、しました」 「セクハラです!」  百瀬は椅子に座ったままあわてて足でこぎ、定位置に戻る。 「次はどこで会いますか?」亜子はモニター画面を見ながら言う。百瀬の三十年後という感じの、頭頂部ムキダシの写真が表示されたままだ。幸い百瀬の位置からはそれが見えない。 「たしか二度目からは直接連絡を取り合うシステムですよね?」  百瀬は三年かけてやっと次の段階に進めたことにうきうきしていた。OKをもらえたら次はこうやって、ああなってとナイス結婚相談所のパンフレットに書いてある手順はすべて頭に入っている。  そんな百瀬を亜子は鼻で笑う。 「一回OKもらったからって調子にのらないでくださいよ。あなたは三十連敗なんですから、ほかの人と同じ流れでは心配です。しばらくわたしのほうで取り次ぎさせていただきます」  百瀬は驚き、そのあと、ほっとしたように言う。 「ご親切にありがとうございます。実はわたし、女性とつきあったことないので、その、デートの場所とか、どうすればいいのかわからないので。本当に助かります」  亜子は百瀬の目を見つめた。 「百瀬さんは一色さんと会いたいんですよね?」 「ええ、それが何か?」 「なぜ?」 「結婚したいからです」  亜子は驚いたような顔で目をそらし、パソコンのキーを叩き始めた。 「あの」百瀬は当惑した。 「用件は済みました。追って連絡します」  亜子は言い、もうパソコン業務に熱中している。  百瀬は以前から感じていたことを今日はっきりと認識した。  大福亜子は扱い辛い。もし彼女が依頼人だったら、扱いにくさのランクは相当に高い。野口美里の比では無い。猫の目の様に態度が変化し、こちらはどう対処したらよいかさっぱりわからない。亜子が依頼人でなくてよかった。ましてや見合い相手でなく、アドバイザーで助かったと百瀬は思う。アドバイザーではなく全くの他人だったらなおのこと平和なのだが、贅沢は言うまい。  百瀬はぺこりとお辞儀をして七番室を出て行く。  亜子はドアが閉まる音を聞くと、パソコンから目を離し、百瀬が出て行ったドアを見つめた。  すると背後のドアが開き、春美が入って来た。 「先輩、猫弁、なんて?」 「会いたいって」 「やっぱなあ、断るはずがない。じゃあさっそく一色さんに連絡しますね」  亜子は「よろしく」と言いながらためいきをつく。 「心配ですか?」 「OKもらえたことがない人間が初めてOKもらえると、もう婚約でもしたくらいにのぼせあがるものだから、だめになった時、立ち直れなかったりするでしょう?」 「考え過ぎですよ。とにかく一色さんに伝えますから」 「ええ、そうして」  春美は行きかけて再び戻り、「わたしも先輩を見習って、一色さんのこと、こっそり調べてるんですよ。担当会員の実像を把握しようと思って」とささやく。 「一色さん、パッチワークが得意なんです。意外でしょう? 結構な腕で、お教室も開いてる。ヘビースモーカーのパッチワーカー。意外ですよね」  亜子はひっかかりをもった。 「それ、最初に提出したプロフィールに記載がなかったの?」 「ええ」 「パッチワークって、女性の特技としてはウリよね。なぜ書かないんだろう?」 「あれじゃないですか? 手芸が得意な女性として選んで欲しくない、って。そういう彼女なりの作戦なんじゃないですか」 「そういえば百瀬さんも、弁護士って記載するのやめたいって言ったことがある」 「あのふたり、自分のウリをウリにせず、先に弱点見せちゃうとこなんか、似た者同士で、相性ぴったりですよ。もう少し調べてみます。やっぱちゃんと人を見ることも必要ですもんね」  張り切っている春美に、亜子はあいまいに笑ってみせた。    第五章 死体の身代金  シンデレラシューズの社長室で、大河内は書類に目を通している。ひととおり見終えると、前に立っている百瀬をぎろりと睨む。  いくら睨まれても、百瀬は無表情のままだ。昨夜テヌーが一晩中部屋を走り回り、寝かせてくれなかった。どうやら大家の家で昼間ずっと寝ているらしく、「静かで助かる」と梅園が言うので、一服盛っているのではないかと疑いたくもなるが、預けている身としては文句も言えず、子猫のエネルギーを一身に引き受けて、かなり寝不足だ。 「家内がこんな依頼をあんたに?」 「マンションはご主人名義ですので、野口進さん、つまりあなたの同意書が必要となります」 「同意するわけないだろう。猫飼っててペット禁止? そんなわがままな話、信用にかかわりますよ。バカバカしい」  大河内は机上に書類を放った。 「いくら積まれたか知らんが、あんただってこんな意見書バカバカしいと思ってるでしょう?」  百瀬は秦野の言葉を思い出した。やらせの葬儀で柩を盗まれた大河内をバカだと言っていた。 「依頼人の声をバカにしていたら、弁護士は務まりません。人にはそれぞれ感性があるのです。奥様には奥様の考えがおありです」  大河内は「美里の考えね、昔からよくわからんな」と言った。  百瀬はふと大福亜子を思い出す。彼女の感情の流れが理解できず、いつも面食らう。あんなふうに家庭でも振り回されたら、たしかに疲れるだろう。優しい女にこしたことはないが、悪女なら悪女でいい。一貫性があれば、こちらも対処のしようがある。はっきりくっきりが好ましい。 「それより家内にこう伝えてくれませんかね。出て行きたいなら出て行ってくれと。あいつには立派な実家があるんです。実家へ戻って猫でもワニでも飼えばいい」  百瀬はそれに対して返事はせず、こう切り出した。 「おかあさま、認知症で入院というのは、うそですね?」  大河内は氷水を飲んだ知覚過敏《ちかくかびん》の男のような顔をした。 「正直に言ってくださらないと、こちらも最善を尽くせません」  百瀬に痛いところを責められ、大河内は黙った。 「いったいおかあさまと何があったんです?」  大河内は吐き捨てるように言う。 「出て行ったんだよ、おふくろは。我が社の大事な書類を金庫ごと持って、いなくなった」 「あれがないと会社運営が滞るんです」  いつのまにか秘書の伊藤がお茶を持ってきて、事情を説明し始める。 「会長の大河内三千代は、戦後、焼け野原の東京で女ひとり、靴磨きをしながら生き抜いたのです」 「靴磨き?」百瀬の目が光る。 「多くの人間の靴をひたすら磨き、靴を見ればその人の心や人生が見えてくるようになったと会長はおっしゃいます。昨日どこでどうしていた、これから約束ごとがあるだろうなどと言い当てて、周囲を驚かせることもありました」  百瀬は「時間切れだ」と言った老婆の顔を思い浮かべた。 「明治以降、草履《ぞうり》からあわてて靴に履き替えた日本人は、靴の履き方を知らなかった。知らずに足に合わない靴を履き続け、その居心地の悪さが人を戦争に向かわせたと会長はおっしゃるのです。足元は人生の土台を作ると考え、靴そのものを作ろうと決心し、馴染みのお客さんから捨てる靴をもらって、靴の構造を学び、革の再生法を自分なりに研究したりもしました」  百瀬は話を聞きながら、天井を見つめる。 「その頃、社長が生まれたのです。父親について会長は何もおっしゃいません。やがてイギリスで修業していた桜井さんを職人として雇い、本格的に靴作りにとりかかりました。ふたりで力を合わせて良い靴を開発したのです」  前頭葉にたっぷりと酸素が行き渡った百瀬は、質問を始める。 「シンデレラシューズという名前は?」 「わたしが付けた」大河内が答える。 「母は毎日靴と格闘していたので、わたしの遊び相手は本や積み木だった。客がくれた絵本のひとつに、シンデレラの話があった。靴が人を幸せにすると信じている母とかぶってな。それを店の名にしようと言ったんだ。小学一年のときだ」 「それまでは大河内靴店だったんですよね?」伊藤が口を出す。 「苗字と同じだと面倒だ。お前んちの靴高いぞ、とよく学校でからかわれた」  大河内は思い出すのも嫌だという顔をした。  百瀬は尋ねる。 「ここまで会社が大きくなり、おかあさまもあなたに会社を譲った。なにか問題ありますか?」 「経営方針です」伊藤は言う。「会長は靴の耐久性や品質にこだわるんです」  大河内が続ける。 「サクライの靴は丈夫すぎる。単価は高いが、一足買えば十年持つ。一人の人間が十年に一足では会社は運営できない」  百瀬は自分の靴を見た。桜井はたしかに「十年もちます」と言った。 「安い靴を気分に合わせてどんどん履き替えてゆく。今はそういう時代ですからね。そこで、量産できる靴を製造販売し始めたというわけですね」 「悪いか?」 「いえ、悪くないと思います」 「しかし母は頑として、だめだというのだ。時代に合わせて靴を売ってはいけないと。靴が時代をつくるのだと、夢物語を信じている女でね」 「そうなると経営は」 「母は小さな店でいいというのだ。粗悪な靴を売るくらいなら、会社は大きくなくていいと」 「その考えもありですね」 「アジアに製造拠点を移すのも、本社をこのビルに移転するのも、いちいち反対しやがる。わかるだろう? 経営は一分一秒を争うスピードレースだ。会社の成長には勢いが大事なんだ。しかし役員の中には会長の肩を持つ者もいて」 「会長が起こした会社ですからね」 「社長はわたしだ。わたしは会社を大きくしたい。利益を上げて、社員を増やして、店舗を拡大して、もっともっと」 「もっともっと?」  大河内は黙った。  黙っている大河内を見て、百瀬は野口家のシャンデリアを思い出した。あの部屋にいて、大河内はくつろげただろうか。靴屋の隅っこでシンデレラの絵本に育てられた男が、あのような育ちの女性と結婚し、今度は自分の手で靴を元手に人生を一変させたいと思う気持ちも、わからないではない。 「大河内さん、あなたのおかあさまは死んでもいないし、病気でもない」 「ああ」 「生きてることは要《かなめ》です。すべての要です」 「どこかでのたれ死んでてくれたらな。嘘がまことになる」  それには答えず、百瀬は書類を鞄に入れた。 「サインはいただけないということで、奥様にそのように伝えます」  出て行く百瀬に、大河内は声をかける。 「さっきの伝言、頼んだぞ。やせ我慢せずに、さっさと実家へ帰れとな」  百瀬は振り返り、「自分でおっしゃったらどうですか」と言った。「この件につき、わたしの依頼人は野口美里さんです。野口進さん、あなたはわたしの依頼人ではない」  大河内はカッとして叫ぶ。 「着手金は払ったぞ」 「それはやらせ葬儀の件です、大河内さん。そちらは近々、犯人から金の要求があると思います。払おうが払うまいが決断するのはあなたですが。決着するまで責任もってご相談に乗りますよ」  百瀬はドアを開け、出て行った。  大河内は立ち上がり、閉まったドアに湯のみを投げつけた。湯のみはごつんと音をたて、割れずに床に落ちた。日本茶がドアに飛び散り、すうっといくすじもの線を描きながら下へ落ちてゆく。 「あいつはナニサマだ!」  伊藤は腰を落として湯のみを拾った。 「なかなか頼りになるんじゃありません? 秦野先生よりキレものだと思うわ。ああいう人は味方にしておくべきよ」 「いらいらする!」  大河内は頭を抱えて座り、額を机に打ち付けた。ごつ、ごつ、ごつ、鈍い音が社長室に響く。  伊藤は軽蔑し切った目で大河内の後頭部を見つめた。黒く、べっとりとした髪が、みっしりと生えている。握っている湯のみを高く掲げ、振り下ろしたい衝動を抑えるため、言いたい事を言うことにした。 「似ているからよ」 「似てる?」 「似ているからいらいらするんだわ」 「あいつが? 誰に?」 「会長によ」 「くそばばあにか?」 「ゆっくり、じわじわと、あなたを追いつめる」  大河内は怯えた目で伊藤を見る。「かないっこないのよ」 「どういう意味だ?」 「勝負したって無駄。相手はあなたに勝とうなんて思っちゃいないんだから」 「どういう意味だ?」 「地位や金に野心を持たない人間は強敵よ。弱みがないんですもの」  伊藤は握っている湯のみを見る。あれだけ強く叩き付けられたのに、ひびも欠けもない。湯のみは三千代であり、百瀬だ。大河内に壊せるものではない。  伊藤は秘書室に戻ると、湯のみをゴミ箱に放った。ごとりと鈍い音がして、気分がすっとする。壊せない相手は目の前から消す。それが伊藤の処し方だ。      ○ 「呑気に寝てんなあほんだら!」  ラーメン屋は短刀の刃先を白い掛け布団の中央に垂直に当てた。総合病院の三階にある入院病棟の個室である。  いかにもラーメン屋という服装で、それも今時の人気行列店ではなく、昭和の中華そば屋という風情の、丈の長い白い上着とだぼだぼの白ズボン、しかしなぜか靴は蛇革のひかりもので、髪はポマードベっとりのオールバックだ。足元に銀色のおかもちが置かれている。  仰向けに寝ている田村は、腹の上の短刀の刃を見ている。手入れが良く、光っていて、点滴の袋が映っている。  田村は右手を頭上に上げて、ボタンを握る。 「なんや?」ラーメン屋は不審に思う。 「ナースコールしますねん」 「われ、そんなん押してみいや、目ん玉突いたるで」 「そやかて、点滴が終わったら、呼ばなあかんのです」 「はぁ?」 「そやないと怒られます、結構怖いんですわ」 「わいとどっちが怖いゆうんや!」  田村はしばらく天井を見ていたが、「ナースかも」とつぶやく。 「こいつ!」  ラーメン屋は興奮して短刀を振り回した。それは点滴のチューブにからまって、もたもたしているうちに床に落ち、ガチリと音が響く。  音を聞きつけ、看護師が駆けつけた。 「田村さんっ!」  入って来たのは三十歳くらいの、目の大きい、ほっそりとした女だ。恐ろしく美しい。ラーメン屋は思わず気を付けの姿勢をとる。田村は怖いと言ったが、この美しさは確かに怖い。  女は点滴を交換しながら田村に文句を言う。 「病院食以外食べてはいけないと何度も申し上げてるじゃないですか」 「はい」 「中華料理なんてもってのほかです」  ラーメン屋は女の横顔を見ながら「『ローマの休日』や」と思う。ウェストの細さ、鼻のつんとした角度、何よりもその大きな瞳がヘップバーンそのものだ。  ローマの休日はラーメン屋を大きな瞳で睨みつけた。 「うちの患者から注文があった場合、お手数ですが、患者の名前と料理の内容をナースセンターへお知らせ願えませんか?」 「は!」 「おいしい料理が命取りになる場合もあるのです」 「は!」 「田村さんに何を持ってらしたんですか?」  ラーメン屋は口をへの字に結んで答えない。 「失礼ですが、確認させていただきます」  ラーメン屋があせっている間にもう、ローマの休日はおかもちの蓋を上にスライドさせた。どんぶりは無い。白い粉が入ったてのひらサイズのポリ袋がひとつ入っているだけだ。 「なんです? これ」  ローマの休日は袋を手にして言った。  ラーメン屋はしどろもどろに答える。 「田村は、た、田村さんには何も注文いただいてません。今出前の帰りで、注文をとりに伺っただけです」 「うそおっしゃい!」  ローマの休日はラーメン屋の胸を人差し指でツンと突く。 「田村さんを殺す気ですか?」  ラーメン屋はちらっと床を見た。短刀はうまいことベッドの下にあり、見えていないはずだ。それとも袋の中身がわかったのだろうか?  靴の中や下着に挟んで持ち歩くのが昔からのやり方だ。しかしその方法はドラマや映画でやたらと使われ、すぐにサツにバレる。今はまさかのところに堂々と入れて運ぶのがこの世界の常識だ。組では「サツの目をくらますブツ運搬法コンテスト」が年に一度行われ、これは去年、グランプリに輝いた方法なのだ。ラーメン屋の服装で、おかもちに入れて運ぶ。弟分の発想で、組上層部の喝采を浴びたが、サツの目はくらませても、ローマの休日はあなどれない。こんなにやすやすと人のおかもちに手を突っ込むとは、ナースの正義感はサツのそれを越えるのだ。  ローマの休日は怒声を上げる。 「砂糖を舐める癖をようやくやめさせたところなんです! なのに、まさか、出前で砂糖を袋ごと注文するとは。想定外でした!」 「すみません」  ラーメン屋はとりあえず謝った。ローマの休日が砂糖と思っている間にすみやかに取り戻したい。するとローマの休日は素直に返してくれた。ラーメン屋はそれをおかもちに入れ、「まいどあり」と言いながら、そそくさと病室を出て行く。  しばらくトイレに隠れて、ローマの休日が出て行くのを待つことにする。男にとり、美人ほど怖いものは無い。  トイレの中央に堂々おかもちを置き、そこに座って堂々煙草をふかした。ここにはナースは入ってこないし、入ってくるのは入院患者という、弱者中の弱者で、どう思われたって平気だ。すぱすぱ吸っていると、入院患者にしてはやけに元気の良い足音が聞こえ、男が入ってきた。  男はラーメン屋を見ると立ち止まり「やべえ」と言った。 「木村!」ラーメン屋は立ち上がり、木村の胸ぐらをつかんだ。 「てめえら、病院なんかに雲隠れしやがって。金はいつ払う?」 「どないしてここが」 「デブの携帯にかけたんや。女が会いたがってる言うたら、ほいほいここをげろったで」 「あのあほんだら」 「金だ、金! かくれんぼしてる暇はねえっ」 「あいつはほんとに死にかけたんですわ。あんたが刺したあの傷が原因でっせ」 「あんな傷で? 血いなんかしょんべんほどにも出とらんかった。死ぬわけないやろ」 「それが破傷風とかいう病気で」 「破傷風?」  ラーメン屋は急に力が抜けたように、手を離した。 「そういやあ、聞いたことあるなぁ。うちの子、予防接種するゆうとった」 「おたくのお子さん、幸せですなぁ。俺も田村も親がいてへんで、予防接種なんて優雅なもん、ろくに受けてないんですわ」 「みなしごか、お前ら。施設か?」 「家はあるんです。でも、遠縁のおいちゃんやおばちゃんや、親戚筋やったもんで。親と同じわけにはいかへんのです」  ラーメン屋は煙草を吸い終わると、便器に放った。じゅ、という小さな音と共に、気合いを入れ直すようにおかもちを持つと、「ほな、病室行くで。支払い期日はとうにすぎとるさかいな。いっぺん元金くらい払《はろ》てもらうで。親分に経過報告せんとあかんしな」と先にトイレを出て行った。  木村とラーメン屋が田村の病室に入ると、田村の横に老婆が立ち、短刀を握っている。 「なんや、このばばあ」  ラーメン屋が近づこうとすると。「黙れ!」と老婆は叫び、短刀の柄を逆手に持ち、座頭市《ざとういち》のような構えを見せた。動きにキレがあり、隙がない。  ラーメン屋は身構える。 「姐《ねえ》さん、ど、どこの組や?」 「ひとことの断りも無くよそのシマに入るとは。先に名乗るのが筋だろう?」  老婆が威厳たっぷりに言うと、ラーメン屋は黙ってなにやら考えあぐねている。  すると老婆は短刀の刃を向けながら、ラーメン屋がぶらさげているおかもちの中から白い袋を取り出した。あまりにすばやい行動で、ラーメン屋は身動きできない。  老婆は袋を手に言った。 「ナニワのやくざがコレのためにお江戸に出張かい?」 「か、返せ」 「取引はおととい、ハマでだな?」 「いいから返せ」 「法善寺《ほうぜんじ》の近藤《こんどう》さんに報告しとくぞ」 「あんた! 近藤さんの知り合いか?」 「金本《かねもと》さんでもいいな」 「あ、あんた、金本さんとも知り合いか? た、頼む。そのブツ持って帰らないとおいら殺されちまう」  ラーメン屋はがくんとひざまずいた。腰が抜けたらしい。  老婆は落ち着き払ってにやにやしている。田村はいびきをかいて寝ている。木村はただならぬ緊迫感に猫背も伸び、まっすぐに立っている。 「取引の帰りにこのふたりの取り立てを親分に仰せつかったんだな?」 「へえ」 「新幹線代もバカにならんからな。やくざも不況でたいへんだろう」 「へえ」 「こいつらの借金は千五百万と聞いているが」 「それは十日前のことで、今は二千万ですわ」 「そんなあほな」木村は口をはさんだ。  するとラーメン屋は木村をぎろりと睨む。  老婆はラーメン屋に尋ねる。 「田村くんは最初いくら借りたんだ?」 「十万や」 「その借金はどういうもんだ?」  すると木村が口を出す。 「千二百円のラムコークを一杯飲んだだけです」  ラーメン屋は立ち上がり、木村に低い声で言う。 「うちの店はサービス料が別に付くんや。かわいい子が注ぐんやからな」 「かわいないで、ただのおかめやん。こいつは惚れ込んでたけどやな」 「ぺっぴんやから惚れたんやろ」 「ハーちゃんべっぴんやて! どうかしてるわ」  老婆は白い袋をぽんぽんとてのひらでもてあそびながら言った。 「わたしが払おう」  とたん、老婆は長いスカートをめくりあげ、赤い毛糸のパンツに手を入れた。ラーメン屋も木村も同時に目をつぶる。  目を開けると、ラーメン屋のてのひらに紙幣があった。千円札一枚と百円玉二枚が載っている。若干、あたたかい。 「きっちり、ラムコーク代だ。サービス料はまけとき」 「ふざけるんやない」 「利息分はこれの口止め料だ」  老婆は白い袋を掲げた。 「いいか? 近藤と金本は天下り先でヒマしてて、なにかいいネタがないかと日々うずうずしてるところだ。こんなネタを持ってったら、ナニワの組のひとつやふたつ、簡単に叩きつぶすぞ」 「近藤さんと金本さんはかんべんしてえや」  老婆はポリ袋に短刀の刃先を当てた。 「床にぶちまけてやろうか?」 「わ、わかった。わかったから、その袋返してくれ」  ラーメン屋は観念したように小刻みに頷いた。目にはうっすらと涙がたまっている。  老婆は田村の枕の横にある食後用と書かれた薬袋をラーメン屋に渡し、「ここに一筆書け。田村の借金全額領収済とな。お前の名前もだ」と言った。  ラーメン屋は胸ポケットに差してあるボールペンで、薬袋の裏に言われた通りに書き、署名した。ラーメン屋らしく見えるよう、注文用のペンを胸に差しておいたが、こんなことに使うとは。老婆の差し出す靴墨《くつずみ》に親指を当て、拇印《ぼいん》まで押すはめになった。  薬袋と交換に、白いクスリ入り袋を返してもらったラーメン屋は、青い顔でおかもちにそっとブツを入れた。親分になんと言い訳しよう?  病室を去ろうとすると、老婆から声をかけられた。 「その靴、親指が痛くないか?」  ラーメン屋ははっとした。たしかに親指が痛い。痛いけれど高かったから我慢して履いている。 「いい修理屋へ持って行けばすぐに楽になる。形もくずれず、履きやすくなる。大阪だったらミナミに一件、いい修理屋がある」  老婆は店の名前を告げ、修理代は五千円はするだろうと言った。そしてラーメン屋の胸ポケットに五千円札を入れた。 「これは組の金じゃなくてお前さんの金だ。飲んだりしないでまずは靴を直せ。明日が違ってくるぞ」  ラーメン屋はきょとんとした顔をした。そして、ねぼけたような足取りで出て行った。  田村は相変わらず眠ったままだ。  木村は事態が飲み込めず、口を大きく開けたまま突っ立っている。老婆は木村の胸に、署名済みの薬袋を押し当てた。木村は震える手でそれを握りしめる。 「借金帳消しだ」老婆は言った。 「はぁ?」木村はまだ飲み込めない。 「借金が、のうなったって? こないに、こないに簡単に?」  老婆は頷く。  木村は薬袋に書かれている「借金領収済」の文字を見て、まだ信じられない。 「そやかて、千五百万もの金、あないにあっさりあきらめるやなんて。逃げても逃げてもあいつら追ってきてからやな。えろうしつこかったんで」 「末端価格にして億はくだらんからな」 「なにがや」 「白い粉だ」 「あの砂糖?」 「ああ、高い砂糖だろう」  木村は薬袋を震える両手で握りしめ、血走った目をこぼれんばかりにして受領サインを見つめると、急にへなへなと床に膝をつき、薬袋に顔を埋めて、「ありがたい」とつぶやく。絞り出すような声だ。 「ぐぉっ」  田村のいびきに、木村はようやく息が出来る思いで、「こいつ、世紀の一瞬、見損ないやがって」と笑った。そして老婆に尋ねる。 「近藤さんと金本さんってどないな人でっか? やくざの大親分さん?」 「元警視総監と元検事だ」  木村は驚いた。知らない職業だが、警察関係のお偉いさんということはわかる。 「どないしたらそんな知り合い……まさかばあさんも、警察の?」 「そいつらが若いとき、靴を磨いたことがある。大昔さ」 「ばあさん、靴磨きやったんか! ただのホームレスやないんや。本業あるんやな」  木村は感心したあと、いきなり土下座した。 「おかげで借金のうなりました。すべてばあさんのおかげや。おおきに」  言い切ったあと、木村はこらえきれず、ほとほとと泣き出した。田村の前では泣けない。子どものときから一度もだ。  老婆はしゃがんで木村の肩を叩いた。 「こんなでっかい弟分かかえて、あんたもようがんばった」  木村はおいおい泣き出す。 「俺はあかん。あほたれや。あの霊柩車の運転手、クビになったゆうてました。そん人、なーんも知らんと、ただでタクシーに乗せてくれはったんです。最後の仕事やゆうてはりました。あない親切な人やのに。俺らのせいです。このままやと、あかんぐるぐるの繰り返しや。死体の身代金要求なんてあほなこと、もうなんもかんも、やめます」  老婆が木村の足元を見た。あいかわらずくたびれたスニーカーを履いている。 「やめてどうする?」 「なんでもええ、働けるとこあったら働きます」 「そうか」 「まず俺が働いて、田村が元気になったらふたりで朝から晩まで働いて、少しでも金がたまったら、あの運転手さん探して、金、送ります」  老婆の目が光る。 「そろそろわたしも橋の下から抜け出すか」  老婆は立ち上がり、木村を見て言った。「せっかく改心したところ申し訳ないが、少しだけ手伝っておくれ」 「手伝う?」 「茶番劇を終わらせるのさ」      ○  百瀬は事務所のデスクで一枚のデータを読んでいる。  大学時代の友人が国立環境科学研究所の研究員をしており、頼み込んで調べ物をしてもらった。霊柩車の運転席に落ちていた草の解析結果である。  それは国内どこにでも生息するイネ科のスズメノカタビラという草で、湿気を好む。電子顕微鏡での解析では、排ガスの付着はきわめて微量。ガスクロマトグラフィーでの解析によると、防虫剤、除草剤などの残留は全く無い。そしてオンシツコナジラミが見つかった。寒さに弱い虫だが、温暖化が顕著な東京では露地でも越冬する。  つまり、「単にどこにでもある草。ただし幹線道路沿いではなく、庭や河川敷などの比較的空気のきれいな暖かい場所」という結果が、友人の直筆で書き加えられている。  あの霊柩車を置いておけるのは、よほど大きな敷地を持つお屋敷か、ひと目が少ない夜の河川敷だろう。戻って来た霊柩車の走行距離を見ると、そう遠くまで行ける距離ではない。昼間は普通に街を走り、夜は東京郊外の河川敷にでも置いたのだろう。しかし、霊柩車がジャックされて返されるまで、中三日ある。その間、河川敷に置きっぱなしでは目立つ。  東京郊外で防虫剤や除草剤をいっさい撒かない河川敷と言えば、ある程度絞られる。百瀬は世田谷猫屋敷事件に奔走していた頃、東京における野良猫の数の分布を徹底的に調べ、ある一帯が猫にとって最適な場所と知った。化学物質に汚染されず、虫などのえさも豊富で、管理もやかましくなく、放置されている場所だ。  猫にとり住みやすい場所は、人間にとっても住みやすい場所に違いなく、そこには家を失った人たちが大勢住んでおり、猫と共存していた。今は都の方針で段ボールハウスは撤去され、そのほとんどが支援施設に移動させられた。同時に猫たちも、里親に引き取られたり、残酷にも処分された数も少なくはなかった。猫と離れることをこばみ、別の公園へ移動した人間もいる。  百瀬はパソコンで地図を開き、その一帯の現在の様子を調べた。大きな橋の近くに、都の建設予定地がある。目隠しされていれば良い隠し場所になるが、柵だけならまる見えだ。どうなっているのだろう?  犯人は盗んだ日の夜、誰かと出会ったに違いない。霊柩車を見られ、事情を聞かれたのかもしれない。その人間が入れ知恵し、身代金をつり上げたのだろう。しかも、柩に何もないことを知っての身代金要求だ。つまり、やらせ葬儀の口止め料だ。  犯人は霊柩車をジャックした時点では遺体があると思っていたはずだ。遺体の身代金は千五百四十万で、口止め料が一億なのだから、ひとりの人間の思考としては突飛すぎる。加担した人間がいるのは間違いない。百瀬はその加担者こそ、キーマンだとにらんでいる。  ひょっとすると、このままなんの要求もなく、済んでしまうかもしれない。しかし、ことが起こった方が、ものごとはおさまるべきところにおさまるのだということを、百瀬は十五年の弁護士経験から知っている。  一枚の写真が百瀬のデスクに飾ってある。赤井玉男がアビシニアンを抱いてにこにこ笑っている。背景は古風で情緒ある家並みだ。裏に「レオナルドと金沢にて」と書かれている。  赤井が教え子のアビシニアンを連れて逃げたあと、百瀬の事務所に飼い主から問い合わせがあり、なんどか相談を受けた。  赤井は「猫は猫。人間の子どものように扱うのは間違いだ」という手紙を旅先から送り続けたという。その手紙にはのびのびと旅するアビシニアンの写真が同封してあり、表情が「まるで別猫」のようで、飼い主はもう我が家のレオナルドではないとあきらめ、とうとう赤井に猫を譲ったのだ。  赤井は許されたことにほっとして、帰りの旅をゆっくりと楽しみ、戻ったら司法試験に向けラストスパートをかけると百瀬に手紙をよこした。 「この人の将来が心配ですよ」  写真を見ながら七重は大きなためいきをつく。「猫弁二世になってしまう」と言う。「むしろ試験に落ちて、おとなしく企業に就職した方が未来は明るい」と言うのだ。  今朝、百瀬法律事務所のドアに落書きを見つけ、七重はつくづく腹立たしい思いがした。いつものように『ねこべん』と、達筆で書かれているのだが、本日の落書きはたちが悪い。半紙にではなく直接ドアに書いてある。スプレー缶で吹き付けたらしく、細かいドットが飛び散っている。黄色のドアに、よりによって、赤いペンキでだ。  真摯に働いた上にこのような扱いを受ける未来ある若者をこれ以上増やしてどうする。百瀬だけで充分ではないか。猫弁二世は要らない。そう七重は思うものだ。  百瀬は七重の意見にほぼ同意している。女はあなどれない。  あなどれない女族のひとりと、できれば年内に婚約にまでたどりつきたいのだが、一色むつみとの次のデートをとりつけてくれるはずの大福亜子から、連絡がとんとこない。なにか不都合でも生じたのだろうか。こちらから催促するわけにもいかず、ただ電話を待っている。  電話は鳴った。野呂も七重も暇だったが、百瀬の右腕のほうが一瞬早かった。 「犯人から電話があった!」  大福亜子ではなく、大河内の声だ。怒っているのか、叩き付けるような口調で「来い!」と叫んでいる。 「一億円で遺体をお返しする」  犯人はそう言った。関西弁の抑揚がある話し方で、最初の電話の声と同じだと大河内は言う。シンデレラシューズの社長室は、今日はロールスクリーンを下ろしてあり、やわらかな光は入って来るが、外は見えない。 「期日は明日の午前八時。Mホテルの2012号室にて、現金で持って来い」それが犯人の言い分で、大河内の携帯電話に直接かけてきたと言う。 「犯人は社長の携帯番号を知ったんですね」 「知ったんじゃない、知ってたんだよ! わたしが言ったのを相手はちゃんと覚えていたんだ。君が言うほど相手はぼんくらではないぞ」 「Mホテルはここから近いですね」 「この窓から見える部屋だ」と大河内が言い、百瀬はなぜロールスクリーンが下ろされているかを知った。 「社内の会長擁護派のしわざかもしれん。おふくろとグルで、そうだ、そもそも社判を持って蒸発した時からこういう計画だったのかもしれん。なんどか家を見に行ってるが、帰った様子がない。誰かがかくまっているのだろう」 「そうでしょうか」百瀬は反論する。 「やらせ葬儀はあなたが仕掛けたことで、会長にとっては想定外のことだったと思います」 「わたしのせいだと言いたいのかね?」大河内は百瀬を睨んだ。 「あなたのせいだからどうとか、そういうことは話してもしかたありません」  百瀬は話を整理した。 「犯人は柩がカラだと承知で、一億円を要求しているのです。あなたの嘘を逆手にとって、つまりこれは口止め料です。一億円払う気はありますか?」 「あるわけないだろう」 「では、千五百四十万はどうです?」 「高い口止め料だ」 「誘拐事件の場合、犯人にとり一番困難なのは身代金の受け渡し場所の指定です。自分の居場所を教えてしまうわけですからね。明日Mホテルの2012号室に恐喝容疑の犯人が来ると警察に通報すればつかまえられます。金も払わずに済みます」 「そして俺は世間の注目を浴びる。生きている母親を死んだことにした不道徳な社長とののしられる」 「そうなると株主たちも黙っちゃいない。社長の椅子もあぶないですね。それを思えば千五百四十万は安いものです」 「しかし相手は一億と言っている」 「交渉します」百瀬はきっぱりと言った。「結局は返したとはいえ、いったんはキャデラックを盗み。恐喝したのですから、相手だって警察沙汰にしたくないはずです。ここは示談でおさめましょう。千五百四十万で生涯口外しないと誓約書を書いてもらいます」 「それで済むだろうか」 「やらせ葬儀を知っている人間の精一杯の抗議とも考えられますが、ただの金欲しさの犯行かもしれません。どちらにしろ相手も交渉したがっていると思います」  大河内は部屋の隅に立っている伊藤に手で合図した。すると伊藤は小ぶりのアタッシュケースを持って来た。 「ここに千五百四十万入っている。最初に犯人から連絡があったときに用意しておいた金だ」  大河内はケースを開け、金を見せた。百瀬は百万ずつ帯を付けた束を数え、一枚を抜いてすかしを確認、手触りで凹凸を確かめた。 「たしかに」百瀬が言うと、大河内はケースを閉じた。 「明日の早朝ここに伺い、その時これをお預かりします。その足で犯人が指定したホテルへ行きます」 「そうしてくれ」 「行方不明のおかあさまとは連絡がとれないままですか」  大河内は首を横にふる。 「おかあさまがもしも今回の件にかかわっている場合、きちんと話し合われるいい機会だと思いますが」 「その金で死体が手に入ったら万々歳だ」大河内は笑った。 「あんたは口止め料と言うが、どうだね? 犯人はご親切におふくろを見つけてくれて、死体にしてくれたのかもしれん」 「大河内さん」 「もしそうだったらプラス六十万付けて千六百万にしてもいいぞと犯人に伝えてくれ」  百瀬は下りのエレベーター内で大河内の妻の言葉を思い出していた。 「ほんもののマザーコンプレックスよ」  そうなのだろうか。百瀬の目にはとことん憎んでいるように見える。どうしてそこまで母親を憎むのだろう? 死ねと願うほどに?  百瀬はアメリカで暮らした頃を思い出す。  母はいつも忙しそうだったが、母の頭の一部をいつも息子の存在が占めていた。それを息子である百瀬が感じ取れるような愛し方をしてくれた。  それがどんな愛し方だったのか、具体的には思い出せない。抱きしめられた記憶も、手料理の記憶もない。当たり前すぎて忘れてしまったのか、あるいはそういう日常がなかったのかもしれない。母が夜、家を空ける時は、普段入ってはいけない書斎を開放してくれて、何を読んでも良いと言ってくれた。英語の本もあれば日本語の本もあり、幼い百瀬にはどちらも同じくらい難解だった。うっすらとした記憶だが、経済学や、工学的文献が多かったように思う。  日本で百瀬を育ててくれた施設の理事長は「太郎は勉強ができる。医者にもなれるが弁護士がいいと思う。いつかおかあさんの手助けができるかもしれないよ」と常々言っていた。  百瀬が弁護士になった理由はそこにある。母も弁護士なのだろうか? それとも、ひょっとして、犯罪を犯すような人間なのだろうか? どこか異国で罪人として刑に服しているのかもしれない。もしそうだとしても、母は本名を明かしていないはずだ。調べ尽くしたが、母の名の犯罪者は見つからない。世界中の法治国家どこにもだ。  いずれにしろ、こうして弁護士として活動していれば、ふいに母と再会するかもしれない。それは明日のMホテルかもしれない。大河内と違い、百瀬は母を愛している。生きていてくれたら、何をしてくれていてもかまわない。  百瀬はその足で電車を乗り継ぎ、例の河川敷に行ってみた。  土手に立つと、薄い雲間から優しいオレンジ色の夕陽が見える。  何年ぶりだろう? 当時は目やにがいっぱいの三毛猫や、ぼろぼろの布を身にまとった人間たちが、ここでそれなりに生活というものを営んでいた。今はそういう世の中の澱《おり》はいっさいなく、無農薬の雑草が健康的に生え、白いソックスを履いた良い子たちが行儀良くキャッチボールなぞしている。川は右から左へ悠然と流れ、その流れだけが昔と変わらず方向性を変えない。  向こう岸には、背の高いトタン板で刑務所のようにぐるりと目隠しされた都の建設予定地が見える。マッコウクジラを隠すには絶好の場所だ。  百瀬は橋の下に目をやった。段ボールがきちんと畳まれ、それは人ひとりぶんの住まいになる量で、律儀に麻縄で縛られている。  近づくと、段ボールの後ろに光るものが見えた。しゃがんで手に取った。 『アルプスの岩清水』のラベル付きペットボトルであった。  パズルは揃った。  あとはぴしりとはめるだけ。ゲーム終了は時間の問題だ。      ○  約束の朝八時ぴったりに、百瀬はMホテルの2012号室の前に立っていた。  アタッシュケースを持ち、襟には弁護士バッジも付けてある。祖父のめがねをかけ、サクライの靴を履いている。完璧だ。  呼び鈴を押そうとして、紺の上着の袖口に付いた灰色の毛に気付く。  短い毛が数本、テヌーの毛だ。今朝はいつもより早い時間に預けたので、大家の梅園から文句を言われた。百瀬はその毛に妙な心強さを感じて、呼び鈴を押す。  一分も経たぬうちに、ドアが少し開いた。チェーンをしたまま、こちらを見る男の顔がある。顔の位置は高く、目はぎょろりとして、どこか怯えているようでもある。鼻は高く、矢印のように下向きに尖っている。 「大河内はん?」ぎょろりは言った。  ほう。男は大河内の顔を知らないのだ。 「代理人の百瀬と申します」 「代理人て何や」 「弁護士です」  ドアはいったん閉められた。チェーンをはずすのかと思ったが、ドアは閉まったままだ。仲間と相談でもしているのだろうか。  数分後、再びドアは開いた。チェーンはしたままだ。 「弁護士言うのは嘘やろ。弁護士は秦野っちゅう男や」  男は大河内の顔を知らないのに、顧問弁護士の名前を知っている。 「秦野先生の紹介で、大河内社長に依頼されました」 「警察ちゃうやろな」  百瀬は襟をつまんで男に見せた。バッジが証明になると思ったのだ。  男はじっとそれを見ていたが、理解できないようだ。その様子から、霊柩車をジャックしたのはこの男に違いないと百瀬は確信した。計画のベースとなる常識や知性が根本的に足りないのだ。霊柩車ジャックは場当たり的な犯行だ。この男がやったに違いない。  百瀬はドアの隙間から名刺を渡す。するとドアは再び閉まった。  数分後、チェーンを解除する音がして、ドアが開いた。  広い部屋である。和洋折衷のセミスイートルームで、まずはリビングがあって、ベッドルームはその向こうらしい。ドアで仕切られてはおらず、つながってはいるのだが、障子で目隠しされており、ベッドは見えない。新婚旅行にはこんな部屋がいいと百瀬は思う。 「金は?」  痩せた男は言った。サイズの合わないスーツを着ており、猫背だ。靴は履いておらず、ホテルのスリッパを履いている。こてこての大阪弁だ。大河内に電話をかけたのもこの男に違いない。  百瀬はアタッシュケースを見せた。 「一億円ってこんなんに入ってしまうん?」  男は驚き、「世の中ってわからんことばかりやな」とつぶやく。  百瀬は男に好感を持った。大河内に比べ、アロエのように腹が透き通っていると思う。  不思議なことに、男はひとりだ。この男が霊柩車をジャックしたとして、あとから身代金をつり上げる知恵をつけた共謀者がいるはずだ。百瀬の脳内で、パズルのピースは揃っていて。ピースとピースはやや微妙な隙間を保った状態で、早くくっつきたい、はまりたいと、苛立っている。  このシナリオを書いている人間はどこにいる? 部屋のどこかに隠れていて、聞き耳を立てているのだろうか。出てこないつもりか? 「お話があるのですが」  そう言って百瀬はソファを見た。まずは男と座って話したい。ケースの金は一億円ではないこと、この金を口止め料として納めて欲しいこと、そして誓約書にサインをしてくれるよう、交渉したい。  男は言った。 「死体、確認せんでええんですか?」 「死体?」 「ごめんなさい、ご遺体や。ご遺体見んでええですか?」  百瀬の頭は混乱した。ピースの距離がふっと、そう、もうあと五ミリだったところがふわっと離れて、十センチくらい先に散ってしまった。でもまだ十センチであって。空中分解したわけではない。  矢印鼻の男は話を続ける。 「ちゃんと冷たいとこ置いとったから、腐っとりません。でもまあ、あちこち動かしたんで、お顔は少し変わってしもたかもしれません。でも、間違いなく柩にあったご遺体ですんで、まあ、ちらっと見てください。そしたらその金いただいて、わし、すぐに失礼しますわ」  百瀬は天井を見た。必死に前頭葉に空気を送った。  それから、男に導かれ、障子のむこうのベッドルームへ入った。  ベッドはふたつ並んでいる。窓際のベッドがひらたいなりにややこんもりと、膨らんでいる。老人の人型《ひとがた》と言えばそんな感じである。枕の上の、顔があるべき位置には白い布がかかっている。手も足も全身布団の中にあり、肌はどこにも見えない。  カーテンは閉まっている。青いカーテンを通じて入る朝日は、その部屋を全体に青ざめて見せる。  百瀬はそれを人間だと思った。枕や人形でごまかすならもっとふくらみをもたせるだろう。それは小柄な、体の薄い、いかにも老人に思えた。母ではないか。かすかな恐怖がやがて灰色のガスのように胸に充満する。記憶にある母は生命力がみなぎっていて、脂肪がぱーんと張り切っていたが、別れてから三十二年が経っている。病気でもしたら痩せて小さくなっているだろう。どこかで投獄されていたらこんなふうに縮んでしまったかもしれない。  犯人のこの男が、空の柩の中身を埋めるために、どこからか調達してきた遺体。  公園で死んだ身元不明の遺体を持ってきたとしたら、それが母ではないと百パーセント言い切れるものではない。しかし、柩が空だということは、盗んだ本人には一目瞭然のことで、なぜこの男が死体を調達したのかわからない。しかもこの男はさきほどから落ち着きが無く、百瀬が死体に近づくのを恐れているようである。死体があると確認してほしいが、近くでは見て欲しくないのだ。  百瀬は青ざめた部屋で天井を見た。そうしてたっぷりと酸素を送る。  前頭葉はだんだんと活動し始めた。この男は、大河内のやらせ葬儀に気付いていないのだろうか? 柩には遺体があって、途中でうっかり紛失したとでも思っているのだろうか? そうだ、だから遺体を調達したのだ。どうもさきほどから、口止め料ではなく、死体の身代金を純粋に欲しがっているように見える。純粋という言い方は変だが、裏はなさそうだ。しかし加担者はそんな馬鹿ではない。百瀬はそこまで考えると、言った。 「お顔を見せてください」  男は「来たか」という顔をした。なんでもすぐ顔に出てしまう性格のようだ。  男はベッドに近づくと、白い布をそろそろとめくった。めくりきらないうちに、もとにもどした。 「大河内三千代さんです」男は言った。へたなマジシャンのようだ。  百瀬はベッドに近づくと、 「よく見えませんでした。失礼」と言い、白い布をめくった。  それはいかにも死に顔であった。眠っているような老婆の顔だ。母ではなかった。  百瀬はじっと老婆の顔を見る。パズルがぱちぱちぱちと音を立ててはまってゆく。想像していたものがその通りにきちんとはまったが、まさかこういう姿で提示されるとは思わなかった。  百瀬は窓に近づくと、カーテンを開けた。まぶしい光が部屋全体を包む。まるで部屋ごと息を吹き返したようだ。  百瀬は窓から外を見る。シンデレラシューズのビルが真正面に見える。  振り返って老婆を見ると、陽を浴びて、そろそろと息を吹き返そうとしている。そんなおだやかな顔だ。  しばらくすると矢印鼻男が言い訳を始めた。 「運ぶ時にぶつけたり、ななめにしたもんで、顔は違って見えるかもしれんけど」 「いえ、たしかに大河内三千代さんです」  百瀬は言った。  すると男はびっくりして、「ほんま?」と聞き返した。 「大河内三千代さんに間違いありません」  そう言って百瀬はアタッシュケースを男に渡した。  男はおそるおそるケースを抱えると、中身も確かめずにおろおろとし、部屋を出て行こうとしたが戻って来て、靴を探しているようだ。この男にやらせ葬儀の口止め料がどうのと言っても通じない。誓約書は理解できないだろう。加担者と交渉すればいいと百瀬は考えた。 「ソファの近くにありましたよ」  百瀬は親切に教えてあげた。すると男はあわててリビングへ行き、しばらくすると「ほんじゃ」と言って、ドアに向かった。もう全然、中身は確かめないようだ。金金と言うわりに、どこか上の空である。くたびれたスニーカーを履いている。  百瀬は老婆に話しかけようとした。  まさにその時、男が開けかけたドアがバーンと内側に開き、男はドアにはじかれた形になって、アタッシュケースを抱えたまま床にころがった。  鬼がいた。  どす赤い顔をした大河内がぜいぜいと息を切らしている。肩が上下し、顔は左右に睨みをきかせ、いつもはきっちりと分けられた髪が逆立っている。  赤鬼はずかずかとベッドルームに入り、仁王立ちで老婆を見下ろす。耳や鼻から血が吹き出すのではないかと百瀬は思った。それほど頭に血が上っているように見える。  百瀬は窓を見た。狙い通り、大河内はやってきた。社長室から望遠鏡でずっとこちらを覗いていたのだろう。  そこまでは百瀬の思惑通りだったが、次は違った。  いきなり、だ。大河内は走って行き、ころがっている男が抱えているアタッシュケースを蹴飛ばした。ケースは部屋の床をすべってソファの下で止まる。  続けて、がう、とうなりながら、大河内は男の上に股がり、両手でぐっと首を絞めた。  殺す気だ。百瀬はあわてて駆け寄り、大河内の腕をひっぱり、止めようとするが、その力はショベルカーのように絶対で、何ものをもよせつけない決意に満ちている。それでも百瀬はぐいぐいと引っ張るしかない。見殺しにはできない。  組みふされた男は「あっ」と驚いた顔のまま、みるみるこめかみに血管が浮き出た。ぎょろりとした目が絞り出されてこぼれ落ちるのではないかと思われる。 「殺しやがって!」  大河内の目に涙が浮かぶ。 「死ね!」  百瀬は足がすくんだ。鬼だ。本物の鬼だ。マザコンなのよと言った野口美里の声が頭の中をこだまする。 「わたしを殺したのは進、お前じゃないか」  鋭い声が日本刀のように空気を切った。  大河内も百瀬もベッドを見る。老婆が半身を起こしている。 「おふくろ」  大河内は腰が抜けたのか、手を離し、尻餅をついた。顔から赤みが消えてゆく。  やせた男は精一杯空気を吸い込むと、げほげほと咳き込んだ。生きている。 「ごめんよ、木村くん」老婆は謝った。  木村と呼ばれた男はしばらくぐえぐえと喉を鳴らしていたが、ようやくのことで声を出せた。 「いったいどういうことや? ばあさん、あんたいったい何もんや」  老婆はベッドを降りた。足がある。すたすたと歩いて来て木村の背中をぽんぽんと叩く。老婆の顔は青ざめたままだが、手は肌色をしている。死に顔に見せるため、青白いファンデーションを塗っているようだ。 「お前さんが盗んだ柩はからだったのさ。最初から何も入っていなかったんだ」 「あほな……車上荒らしやなかったんか……あんた、本物の大河内三千代か」  木村はわけがわからず、頭を抱えてぐったりとしている。 「このばか息子が企てた、うその葬式だったんだよ」  三千代の言葉に、大河内は目をそらした。  部屋がしん、とする。気まずい攻撃的な静寂だ。  ややあって、百瀬が言った。 「大河内三千代さん、お会いできてうれしいです」  三千代は百瀬を見て、ほう、と驚いた顔をした。 「河川敷にいらっしゃいましたね?」 「わたしはああいう暮らしからスタートした。原点に返っただけだ」 「霊柩車ジャックと出会ったのは偶然ですね?」 「おやおやまるで警察の取り調べだね。いいかい? わたしゃばか息子に愛想が尽きて家を出た。ついでに息子の大事なものを盗んで家を出た。いろいろと困るだろう、いい気味だと思ったら、このぼんくら、母親が生きてるのに葬式出すとはな。あんまり腹が立ったものだから、木村くんの勘違いを利用して、息子をこらしめてやったのさ」  大河内と木村は同時に「ふあー」と愚痴っぽいため息をついた。ついさっき殺意を持った男と、持たれた男が今、似たような心境にある。  三千代は名刺を手に百瀬を見つめた。 「百瀬さんというのか」 「はい、あのう、わたしは」 「片方の靴はまだだったな」 「ええ、覚えていてくださいましたか」  三千代は百瀬の足元を見た。三千代と桜井が開発を重ねた結晶がそこにある。  三千代は深く息を吸い、まぶしいような目で百瀬の顔を見る。次に厳しい顔で大河内を睨んだ。 「それごらん、秦野は引き受けなかったろう?」  大河内はむすっとしたままだ。 「なあ進、少しは人を見ろ。顧問弁護士は会社にとって大切なパートナーだぞ。あんな功利主義の弁護士」 「うるさい!」  大河内は立ち上がった。 「そうさ、いつだってあんたが正しいんだよ! あんたが経営したら、国に表彰されるような上等な靴ができる。気の済むまでいい靴を作って、人間国宝にでもなってくれ! 俺はそんな靴は要らない。そんな靴じゃ、儲けが出ないんだよ! 今の時代、どんどん履きつぶしてどんどん買い替えてどんどん収益をあげなくては」 「そんなに会社を大きくして、いったいお前、何がしたい?」 「会社を大きくするのに理由がいるのか?」  しばらく沈黙があった。  三千代は思い出していた。小さな作業場で桜井と靴を作っていた日々。その横で絵本を見ながら目を輝かせていた息子。母手作りの靴を履き、自慢げに学校へ行く進の、あのやわらかな頬の赤み。かあちゃん、かあちゃんとまとわりついた汗臭い小さな手。そのなれの果てが今、ここにいる。 「嫁さんに見栄をはるな」 「くそばばあ!」  大河内はカッとして、備え付けの冷蔵庫の上にあるウィスキーの小瓶を掴むと、乱暴に蓋を開け、ぐいっと飲み、床に叩き付けた。  やわらかい絨毯《じゅうたん》の上でそれは跳ねた。割れてあげたらいいのにと百瀬は思う。なんだか大河内が寂しそうに見える。  三千代は床を歩いている。生きている。三千代は息子の前を通り過ぎ、ソファの下にあるアタッシュケースを取り出して、重さを確かめるように揺すった。 「千五百四十万かい?」 「そうです」  木村は驚いて「一億円やないんや」とつぶやいた。  大河内はここでやっと百瀬を信用した。  霊柩車ジャックの犯人はたいそうな間抜けで、一億円がこんなケースに入ってしまうと思い、柩の死体は車上荒らしに盗まれたと思い込んでいるような阿呆だ。ここまで間抜けな男の行動が読めないのも道理だ。何を考えているかわからない人間は、何も考えていないのだと、常々おふくろが言っていた。おふくろの言うことは、いまいましいほど正しい。  三千代は大きな息子に交渉した。 「千五百四十万と引き換えに生きたわたしが戻るなんて、そちらがあまりに気の毒だ。引き換え条件はこれにしよう」  三千代はソファの後ろに置いてあるキャスター付きの道具箱から、金庫を出した。  三十センチ四方の小型の金庫だ。それを大河内に差し出すと、言った。 「お前が必要なのはこっちだろ?」  大河内は両手で受け取った。開けると、社判や証券がぎっしり詰まっている。  百瀬はガード下を思い出す。三千代が座っていた金属の箱だ。 「会社は全部お前にやる。これからはお前の好きにおし。すっかり手を引いて、わたしは消える」 「消える?」 「葬式もあげてもらった。このまま死んだことにしておけばいい」  大河内の顔から毒気が消え、叱られた子どものような、ばつの悪い表情に変わった。  三千代はてきぱきと話を進める。 「ひとつ頼みがある。お前の運転手、そろそろ定年だったな。そのあとに雇って欲しい人間がいる」 「誰だ?」 「霊柩車ジャックに巻き込まれて首になった男がいる。運転手だ。寺に連絡先を聞き、本人と雇用契約を結んでくれ」 「わかった」  木村はほっとして、両手を合わせ、拝むように三千代を見た。 「それから」 「まだあるのか?」 「あんたんとこの職人ひとり、こちらで引き受ける」 「桜井ならもう契約解除した」 「ならいい」  三千代はパン、と両手を合わせた。おひらきの合図だ。  金庫を抱えた大河内は、合図と同時に歩き出し、ドアにたどり着くと、ふりむきざまに言った。 「あんたこれからどうする?」  三千代は答える。 「気にするな。もうお前の母親は死んだんだ」  大河内は何か言おうとするが、うまく言えない。もじもじとして、一歩を踏み出せないでいる。そんな息子を見て、三千代は言った。 「それよりお前、嫁さんを大切にしろ。秘書の女ギツネよりなんぼか真っ当だ」 「うるさい!」  ドアは激しい音をたてて閉まった。  百瀬は思う。いつもこうしてこの母は、息子を怒らせて背中を押して来たのだろう。  ベッドルームの窓を見た。シンデレラシューズが見える。  三千代はなぜこの部屋を選んだのだろう?  息子自身が交渉に来ると考え、ここで自分の死体を見せる筋書きだったのだろう。しかし気の弱い息子だ。代理人を立てることも予想していただろう。息子のいる社長室からこの部屋が見えるのを計算してここを選び、死体となった自分を見せたのだ。しかし、カーテンを開けたのは百瀬だ。そこまで計算していたのだろうか? そして息子のあの反応は、想定内だったのだろうか?  運命というものは、計算してもし尽くせない水物である。勇気ある人間は大勝負をするとき、ラストまで筋書きを書かない。これはひとつの賭けだったのかもしれない。  広い部屋に、三千代と木村と百瀬が残された。  三千代はアタッシュケースを開く。福沢諭吉の口はへの字だ。への字が縦横にびっしりと並んで、ヘヘヘヘヘと腹の底で笑っているように見える。金が手に入った三千代も木村もあまりうれしそうではないので、代わりに諭吉が笑ってくれている。  百瀬は尋ねた。 「本当のところ、どうして家を出たのですか?」 「靴を履き替えたんだ」  そう言うと三千代は脱力するようにソファにずしんと座った。ふーっとため息をつき、膝上で手を組むと、目を合わせずに淡々と語り始めた。 「会社を大きくするだの、畑違いの商売に首をつっこむだの、ハナからあの子とは衝突があってな。いちいちがあがあ喧嘩して、周囲はハラハラしていたようだが、それがわたしたち親子のやり方で、いいんだよ。しかしな、あの子はずっとサクライの靴を履いていた」  三千代は懐かしむように、ほほえんだ。 「小さい頃からずっとだ。足が大きくなるたびに1サイズ大きい靴を作ってやった。わたしが人生かけて開発した最高級の靴をあの子はずっと履いていた。だから許せたんだ。くそババアと言われたって、信じていたんだよ。わたしの信念を認めてくれていると。だが、ある日、あの子は大量生産した薄っぺらい靴を履いて来た。自分で開発した靴を自慢げにな。ぞっとするほど粗悪な品だ」  三千代は苦々しく顔をゆがめた。 「それで家出を?」 「ひとりになって考えたかったんだ。今までのこと、自分の信念、そして」 「息子さんの気持ちを確かめたかったんですね?」 「……あんたにはお見通しだな」 「息子さんはあなたを愛しています。あなたに危害を加える人間がいたら、絞め殺す、そんな男です」 「これで母親を卒業だ。捨てて、進むんだ。人間はな」  三千代はさっぱりと笑顔で言った。  百瀬は大河内の姿を思い浮かべたが、靴は思い出せない。 「大河内社長、今日はどんな靴を履いていたかな」  すると三千代はふん、と鼻で笑った。 「おそらく左の小指と右のかかとに絆創膏《ばんそうこう》を貼っているさ。あの子も靴屋だ。自分で作った靴をああして履いて試して、改良点を身をもって知るのさ」  百瀬はなるほどと思った。やり方は違うが、大河内もやはり靴を愛している。母親の血を受け継いでいるのだ。余計なことだと思ったが、つい口から出た。 「親子なのだから、縁を切らなくても」  すると三千代はぽつりと言った。 「母親の気持ちなど男にわかるものか」  百瀬は自分の母を思った。自分もきっと、母の気持ちをわかっていないだろう。 「これからどうなさるんですか?」  百瀬が尋ねると、三千代は木村を見た。木村はいつのまにか正座をしている。背中が丸い。ミイラのように、表情に生気がない。話の流れについていけず、ぼうっとしてしまっている。 「また連絡する」  三千代はそう言って百瀬の名刺をひらひらさせた。 「もう片方磨かないと気持ち悪いしな」  連絡先を聞いたが、三千代はそれには答えず、逆に質問してきた。 「あの時、そう、靴を磨いた時、わたしはお前さんにバランスが悪いと言ったが、覚えているか?」 「はい。覚えてます。頭と精神のバランスが悪いと」 「お前さんの頭脳を効率よく活かすには、お前さんの心がヤワすぎる、と言ったんだ」 「はい、そうでした」 「言っておくが、それは欠点ではないぞ」 「え?」  三千代はにやりと笑って、百瀬に背を向けた。  しかたなく、このまま百瀬は部屋を去ることにした。ドアを開けたところで、三千代から声がかかった。 「お前さん、もうじきいい縁があるよ」  百瀬が振り返ると、もう三千代は木村と共に、なにやら親密そうに、話をし始めていた。    第六章 黄色いドア  エレベーターは最上階を目指している。  百瀬は数字を見つめ、背後は見ないようにしている。  ランドセルを背負った女の子がガラスにおでこをくっつけて、勇敢に下を見ている。 「あれなに? あれなに? あれなに?」  女の子は百瀬の上着の裾を掴み「見て見てあれ」と言う。  百瀬は一瞬にして汗をかいた。冷や汗だ。しかたない。女の子の頼みは断れない。おそるおそる顔を十五度後ろに傾けてみる。黒目を精一杯端に寄せてみる。するとめがねのレンズから視線がはずれてしまい、何も見えない。しかたないので顔をプラス五度後ろに回す。すると、見える。みぞおちがぞわぞわとして、太ももに虫が走るような錯覚を覚える。こんな高いところに住むのは人間の生理に反していると思う。  一方女の子はなんら恐怖を感じないようだ。生まれてからずっと高層マンションに住んでいるからだろう。  女の子が指差す先には細く見える大通りがあり、大きなキャデラックが小さく見える。屋根を背負ったリムジンだ。 「あれは霊柩車だよ」  百瀬は言い。目を数字に戻す。現在十七階。女の子も最上階なのだろうか? 「れいきゅうしやってなに?」  女の子は正面に回って百瀬を見上げる。 「亡くなった人を運ぶんだよ」 「亡くなる?」 「死んだ人」  女の子はふーんと言って、再びガラスに貼り付いた。 「あの屋根、羽根?」 「え?」 「だって空飛ぶんでしょう?」  三十階に着いた。ドアが開き、百瀬は降りたが、女の子は降りない。  百瀬はドアを押さえて、女の子に尋ねた。 「降りないの?」  女の子は「いったりきたりしてるの」と言った。そして、「ねえ、あれ、空飛ぶんでしょう?」と再び言った。 「飛ばないよ」 「だって死んだ人運ぶんでしょう?」 「ああ」 「死ぬと空に行くでしょう?」 「…………」 「パパそう言ってたよ。ママ空にいるって」  女の子は外を向き、こんどは空を眺めている。  百瀬は「飛ぶよ」と言った。すると女の子は振り向いた。「空飛ぶ車だよ」と言うと、女の子はにこりと笑った。  百瀬は「閉まるよ」と言って手を離した。  ドアは百瀬の視界から女の子を消した。  野口美里は相変わらずソフィア・ローレンに似ているが、どこか違っていた。  どこがどうとは言えないが、たたずまいが違う。チンチラは相変わらず中央のソファの真ん中にいて、この部屋の女王はわたしという顔をしている。そのチンチラも、どこか違っていた。相変わらず不機嫌顔で、「とても嫌なことがあるのだ」と言いたげなのだが、「不機嫌を人にも分けてあげたいです」とまではいかないような、その程度の不機嫌に見える。つまり、不機嫌の軽減が実行されたという感じだ。  エスプレッソマシンのスチーム音がする。胃薬を飲んできたから、今日は二杯は飲める。心にゆとりがあるせいか、非常に良い香りだと百瀬は思う。 「ご主人から同意書をいただきました」  書類を見せると、美里は「あらまあ」とあきれたような声を出した。 「主人がわたしの考えに賛意を示すなんて、天変地異でも起こりそう。百瀬先生、なにか一服盛りました?」 「いえ」  別件が解決したので心穏やかになった大河内が気を良くしてサインをくれたとは言わなかった。大河内にしても単に気を良くしたというより、なにかこう、角がとれたような感じがあった。夫婦は別に暮らしていても、角がとれるタイミングが同じだったりするのだろうか。自分も夫婦になったらこうして、見えない糸でつながってゆくのだろうか。  百瀬はエスプレッソを飲んだ。胃薬のせいか前回よりまろやかな味だ。 「おいしい?」 「はい」 「前にいらしたとき、まだ慣れてなくて、粉の分量を間違えたんですの」  百瀬はなるほどと思った。あれはやはり、異常な濃さだったのだ。 「今日さっそく帰りに管理事務所に寄って意見書を提出します」  はりきって百瀬が言うと、美里は「もういいんですの」と笑った。 「ペット可のマンションで、シルビーヌ・アイザッハ・シュシュちゃんをのびのびと育てたいと思うんですの」  美里はそう言って、チンチラをなでた。 「先生に言われるまで、わたくしこの子の耳のこと、気付きませんでした。呼びかけても振り向きもしないし、話しかけても返事をしないし、実を言うと、あいその悪い、気持ちの冷たいところのある子だと、心のすみで寂しく感じていたんですわ。なんだかわたし、誰からも相手にされない人間のような気がしましてね。耳が不自由だなんて、ちっとも気付かないで、勝手なものですわ。  先生はたった二回、この子に会っただけで、気付いてくださったんですのにね。それでわたくし、あれからこの子と、目を見て対話するようにしたんですの。そうしたらね、少しですけれど、話し合えるんですのよ。なでてもいいよとか、くすぐったいからやめてとか、そのくらいのことは会話できるんですの。  この子との暮らしが面白くなって、もっとこの子を知りたくなりました。もし、近所に猫を飼っているおうちがあったら、行き来して、そうすればこの子の世界も拓けますし、もっとこの子を理解できると思いますわ」  チンチラはにゃう、と鳴いた。 「ほら、相槌ですわ」 「相槌ですね」  ソフィア・ローレンはシルビーヌを抱いた。絵画のような美しさだと百瀬は思った。  ソフィアは言った。 「主人がサインをくれたこと、うれしかったわ。そう伝えて。そして、たまにはうちに帰ってきたらと伝えてください」  百瀬は頷いた。  帰りのエレベーターに女の子はもういなかった。百瀬は恐怖に耐えながら、すかし目で外を見た。みぞおちが寒い。  あの夫婦はいつかこのエレベーターで肩を並べているだろう。その姿がしっくりと目に浮かぶ。  いつか自分も誰かと肩を並べているのだろうか? 三千代は「いい縁がある」と言った。一色むつみがその縁なのだろうか。むつみの肩が自分の横にあるのを想像しようとするのだが、なかなかうまくいかなかった。      ○ 「犬? 別に犬だからとお断りはしません。うちは猫専門ではありませんよ。猫弁? それは勝手に世間がそう言ってるだけで、うちはあくまでも普通の法律事務所です。猫でも犬でも人間でも、ご相談内容はバリアフリーです」  野呂は電話を切った。 「ドアにペンキで落書きされてから、ますます誤解が大きくなる。半紙に墨汁ではありません。ドアにペンキですよ。刑法二百六十条前段、損壊に当たります。今度こそ堂々、建造物等損壊罪ですよ」  百瀬はなにか言いたそうだが、野呂はそのすきを与えない。 「憲法を持ち出して表現の自由などと言い出す気ですか? いいです、ならば名誉毀損罪を付け加えましょう。侮辱罪でもいいです。弁護士の名誉を傷つけ、猫専門という誤解を世間に与え、事務所の営業を妨害し、具体的に損失を与えているわけで」 「野呂さん」百瀬はやっと口をはさんだ。「わたしは最近、その猫弁という呼称、そう嫌だと思わなくなってきたんです」  野呂は開いた口をふさぐことができず、ためいきすらつけなかった。 「業者はいつ来るんでしたっけ?」百瀬は尋ねる。 「昨日の予定だったのですが、変更になって。安い仕事なのであとまわしにでもしとるんでしょう。こちらも相当値切ったので、文句も言えません」  野呂はものわかりの良い態度を見せた。  七重は「なんですかそれ」とスコップを振り回し、「契約不履行ですよね」とぷんぷんだ。 「電話で注文しただけだと、契約にはなりません」  百瀬は牛柄のモーツァルトの背中を見つめる。モーツァルトは百瀬の靴を舐めるのに夢中だ。本日、人に会う仕事は無いので、片方ぴかぴかで片方くたびれている靴を履いている。こうして久しぶりに履くと、いかにサクライの靴が履きやすいかを思い知る。それにしてもバランスが悪い。これもはやく三千代に磨いてもらいたい。その後どうしているのか知りたい。  百瀬は久しぶりに事務所の経理をチェックし、考え直さねばならぬと思った。自分の収入を減らし、事務所の経費に回したい。ペンキ屋がすぐにとんでくるほど気前よく金を払えたらと思う。自分の収入が減るのに、引越もしたいと思っている。テヌーの里親が見つからない。そろそろ大家も限界だ。これを機に、ペットが飼える環境に引っ越したい。それには金だ。ということは、蛇口を閉めねばならない分野がある。そう、結婚相談所だ。そろそろ卒業せねば。もうすでに払い過ぎている。  電話が鳴った。百瀬がとると大福亜子からである。待ってましたの電話だ。 「今日中に来られませんか?」 「やっとあちらと約束できたんですね」 「とにかくすぐにいらしてください。電話ではお話しできません」  まぶしいオフィスの前で、百瀬は後悔していた。なぜ今日に限って、サクライの靴を履いてこなかったのだろう? 気持ちが萎える。  七番室に入ると、大福亜子は怒ったような顔をして、ぴしっと座っていた。そういう顔はまあ、いつものことなので、百瀬はとにかく座った。 「百瀬さんは選ぶのが苦手と聞きましたが、今日はひとつ選んでいただきたいことがございます」 「はあ」 「今からお話があるのですが」 「はい」 「悪い話と」 「悪い話と?」 「もっと悪い話があります」 「え?」 「どちらから先に聞きたいですか?」  百瀬は靴を見た。やはりサクライの靴で来ればよかった。 「悪い話からでお願いします」  百瀬は言いながら、やはり断られるのだなと思った。なにがいけなかったのだろう? 少し夢を見てしまっただけに、いつもより辛い。  亜子はつばをごくんと飲み、言った。 「一色むつみさんは退会されました」  その言葉は百瀬にとり想定外のことだった。一瞬混乱したが、理由はわかる気がするのだ。お金の都合ではないか。それならばいい。断られるよりましだ。自力で会い続ければいい。 「退会者と個人的に連絡をとってもいいですよね?」  百瀬は尋ねた。すると亜子はこう言った。 「もっと悪い話があると申し上げました。質問はそのあとにしてください」 「はい」  百瀬は居住まいを正した。 「一色さんは、既婚者でした」  百瀬は聴き取れなかった。言葉は聞こえたのだが意味不明だ。  百瀬の表情でそれとわかり、亜子は言い方を変えた。 「一色さんには夫がいます」  今度はいくらなんでも百瀬の耳に届いている。けれど、よくわからないのだ。オットガイマス。って、どういう意味だ? 「もちろん会社としては把握しておりませんでした。うちのスタッフが個人的に調べて、発覚したのです」  その言葉を百瀬はじっくりと咀嚼《そしゃく》した。そして、言った。 「長年別居してるとか? 結婚していたことを忘れてしまうくらいに」 「いいえ、普通に一緒に暮らしています。お子さんもいて、高校生だそうです」 「…………」 「本人に確認したら、認めました。それで登録を抹消させていただきました」  百瀬は天井を見た。  カチコチカチコチと時計の音が聞こえる。七番室の掛け時計の音がこれはどの存在感を示すのは初めてだ。長い時間、百瀬も亜子も何も言わなかった。最初に口火を切ったのは亜子だ。 「もし百瀬さんが一色さんに恋をされたのなら、旦那様から奪うということも」 「『卒業』ですか?」  百瀬は皮肉な笑みを浮かべた。亜子は、百瀬も怒るのだと知った。  再びカチコチカチコチと時計が鳴って、しだいに百瀬の表情もやわらいでいった。今度は百瀬から尋ねた。 「一色さんはなぜこんなことを?」 「今の生活に飽きて、いつか家を飛び出したいと考えたのだそうです。次のお相手を見つけてからなら一歩踏み出せる、そう思ったそうです。被害者である百瀬さんにこう申し上げるのもなんですが」  百瀬は黙って聞いている。 「きっと、本気で探してはいなかったんだと思います。素敵な趣味もあるのに隠して、煙草をことさらに吸ってみせたりして、相手が本気にならないよう、わざと自分から断られるような行動をとっていましたし」  素敵な趣味ってなんだろうと百瀬は思った。ピアノでも弾くのだろうか。 「彼女は寂しかったのでしょう。お見合いで気を紛らわしていたのです。あの、詐欺罪とかの被害届を社としては出しませんし、彼女を紹介した会員さんには紹介料を返却しますし、百瀬さんもできたら穏便に」 「女性って家族がいても寂しいものですか?」 「感じ方はいろいろですから」  百瀬は亜子をやさしいと思った。女にはやさしく、百瀬にはやけに厳しい。 「とにかく今度の件はこちらの落ち度なので、紹介料はお返しします。また良い人をみつけますので。気合いを入れて探します」 「いえ」  百瀬は会員証をテーブルに置いた。 「わたしも退会します」 「え?」 「お世話になりました」  百瀬は頭を下げた。さっぱりとして嫌味が無く、怒っているわけでもなく、やけっぱちという雰囲気でもない。  亜子はぽかんとした顔で言った。 「結婚、あきらめたのですか?」  百瀬は笑顔だ。 「あきらめませんよ。いつか結婚します」 「ならどうして」 「正直言います。金が尽きました」  亜子ははっとした。  百瀬は立ち上がった。 「大福さんには多くの女性を紹介していただいて、ありがとうございました。成果をあげずにやめていくご無礼をお許しください」  百瀬はふかぶかと頭を下げ、七番室を出て行った。      ○  ひと月後、三千代から百瀬法律事務所に電話があった。 「秋田で店を出した」  桜井を頭に、見習いをふたり置いて、手作りの靴を作って売っているそうだ。 「見習いのふたりはずぶの素人で、まだまだだけど、素直であんがいと手先が器用だ。話が楽しいからこちらも退屈しない。お客さんも喜んでいる」  三千代の声のむこうから、大阪弁の掛け合いが聞こえて来る。ほんとうに楽しそうだ。 「うちの店は修理もやる。磨きもやる。店員のひとりがやけに足が速くてな、注文をとってきて、直した靴を届けに行くし、客も便利だと喜んでいる」  三千代の声ははずんでいる。孫でもできたような喜びが伝わって来る。 「お前さんの片方も磨いてやるから来なさい。たったの八百円でぴかぴかになる」  そう言うが、往復交通費を含めると高い靴磨き代だ。 「お前さんにはいい縁があるのだから、新婚旅行においで」  そう言われて、百瀬は生返事をした。いろいろと鋭い三千代だったが、その予言だけははずれたと百瀬は苦笑いする。  その日の夕方、獣医のまことから電話があった。テヌーの里親がみつかったというのだ。  百瀬はもうすっかり自分で飼う気でおり、引越先を具体的に探し始めていたので、驚いた。驚いたが、里親が見つかるにこしたことはない。 「いい人だ。信頼できる。実をいうと、十二年前の、例の世田谷猫屋敷事件の関係者なんだ」 「関係者?」 「ほら、あの中学生だよ。泣きながらわたしのところにやってきた」 「まこと先生に助けて欲しいと言って来た子?」 「そう、屋敷の近所に住んでいる子で、訴えられている猫屋敷のおばあさんに同情して、どうにかならないかと言って来た。中学生だから自分では何もできないって、開業したばかりのわたしのところに来た。猫弁、あんたが見事に解決してくれたのを、その子とっても喜んで、泣いてた」  百瀬は世田谷の、あのお化け屋敷のような家が、ふっと脳裏に甦った。高級住宅街の一角、そこだけ時間が止まったかのような古いお屋敷に、四角い顔の老婆が三十七匹の猫と暮らしていた。  忘れたくても忘れられない。屋敷に一歩足を踏み入れた時の、ぞっとするような湿気と、カビの匂い。何年も光が入らず、空気が百年は滞っているような薄暗い室内に、その人はいた。  老婆の顔は、中央の鼻から片目にかけてヒトデがはりついたようなデザインの紫のアザがあり、歯は一本も見当たらない。  彼女はそのお屋敷で生まれた。家族がアザを気にして学校へもやらず、人にも会わせず、そのまま八十年の歳月を経て、家族は死に絶えた。ひとり残された老婆は、近所でネコババアと呼ばれ、まともに口をきくものはおらず、社会性は皆無で、生ゴミは玄関前へ捨てる。猫は、代々居ついているものから、生ゴミに釣られて迷い込むものもいた。そこはもうすっかり猫たちの屋敷で、老婆はただ猫が欲するままに、えさを与え続けているようにも見えた。  三十七匹をたばねているのは、推定二十五歳の、長い毛があちこちダマになった老猫タマオで、白内障で左目が灰色に濁り、その分右目は金色に光り輝き、まるで老婆の保護者であるかのように、その屋敷を守り、侵入者を威嚇した。  近隣住民は猫の糞尿《ふんにょう》に悩まされ、区役所に嘆願書を出し、猫屋敷の立ち退きを要求した。迷惑な猫屋敷として、マスコミにもとり上げられた。老婆は人々の平和を脅かす「悪」であった。  ただ、たったひとり、老婆と猫を案ずる女子中学生がいた。  学校の帰り、女の子が屋敷前を通りかかった時に、門の下をころがり出て来た小さな赤ちゃん猫。たんぽぽの綿毛のように、真っ白でふわふわ。そのあまりのかわいさに思わず抱き上げると、後ろから声をかけられたそうだ。 「欲しかったらやる」  振り返ると、ネコババアだ。女の子はかなしばりにあったように硬直したが、ネコババアはにっと微笑むと、屋敷の中に消えて行った。  女の子は赤ちゃん猫を持ち帰り、大切に育てた。女の子の目には、ネコババアが悪人には見えなかった。白猫の親兄弟も屋敷にいる。屋敷が強引に撤去され、猫たちの命も処分されると思うと、いてもたってもいられず、近所に往診に来たまことに相談した。それをまことがウエルカムオフィスに持ち込み、百瀬が担当することになったのだ。  百瀬は女の子に会ったことはないが、そのいきさつをまことから聞いていた。 「あんたは何度も屋敷に通い、おばあさんの心を開き、遠縁をつきとめ、屋敷の処分、猫たちの引取先、万事まるくおさめ、近隣住民も納得した。おばあさんも療養先が見つかって、人間らしい生活を始めた。時間をかけてあらゆる制度を総動員し、オールハッピーだ。その子、まるであんたをスーパーマンみたいに尊敬して、ほめちぎっていたぞ。でもあれがきっかけであんたはオフィスをクビになり、猫弁って呼ばれるようになってしまった。その子、責任を感じて、お宅の猫の里親、ずいぶん引き受けてくれてたんだ。恩をきせたくないと、内緒に、って言われてたんだけど。テヌーの話をしたら、ぜひ引き取りたいと言って、もう大家さんちに向かっている」 「もう?」 「猫弁先生、あんた、あの猫に特別な思いがあるだろう? ひと目会って、さよならしてこいよ」  気がつくと、百瀬は走っていた。信号を待ちきれず、歩道橋を駆け上がり、つんのめりつつ走った。足がもつれ、階段から転げ落ち、すねをしたたか打った。ズボンに穴が開いた。心臓が痛い。これ以上は走れない。ついに立ち止まり、息をぜいぜい整えていると、自動販売機が横にあった。テヌーはここから生まれた。 「テヌー」  百瀬の鼻から水がしたたる。再び走った。走りに走ってようやく大家の家に着いた。呼び鈴を鳴らす。  いらいらするほど待たされた挙げ句、梅園はのんびりと出て来た。作務衣に両手を突っ込んでいる。 「里親さんは?」 「もうとっくに」 「え?」 「渡したよ」  百瀬は鼻水をすすった。どうしたことか、目からも水が出てくる。  百瀬は不思議な思いがした。記憶にある限り、泣いたことがない。七歳のとき日本にやってきて、母と別れてから、泣くのは初めてだ。母といたころは泣いていたと思う。思うだけで、どうだったかは思い出せない。 「おやまあ、やだねえ」  梅園はふふっと笑った。 「百瀬さんがさよならくらいはしたいだろうと思ってねえ、里親さんにここで待っているように言ったのだけど」 「え?」百瀬は希望の光を見た。 「ちょうどわたしも大事な用があって、ラジオでイタリア語講座が始まるところだったんで、うちで待っててもらうのも、困ったもんでねえ」 「はあ」そうはうまくいかないものである。 「アパートの鍵渡して、中で待っているように言ったよ」 「え?」 「百瀬さん、あんたの部屋にいる」 「はあ」 「さよなら、しておいでよ」  百瀬は梅園の差し出したハンカチで鼻をかんだ。返そうとしたら要らないと言われたので、そのまま走った。テヌーにさよならを言おう、テヌーをよろしくと言おう、ラストスパートをかけた。  もう外は薄暗い。見上げた二階の窓がぼんやりと明るい。灯りの付いた部屋に帰るのは初めてである。錆びた階段を駆け上がると、まずはノックをしてみた。自分の家にノックをするのもおかしいが、礼儀としてノックをし、ドアを開けた。  百瀬は天をあおぐことを思いつくゆとりも無く、部屋の中央を凝視した。立ったまま、なにがなんだかわからなくなっていた。 「おかえりなさい」  あたたかい声が返ってきた。いつものドスのきいた声ではない。大福亜子はテヌーを抱いて、部屋のまんなかで正座をしている。 「大福さん、なぜここに?」 「まこと動物病院で、この子の里親募集をしていたので、もらいに来ました」 「それはありがたいけど、もう里親は決まっていて」  そう言ったあと、百瀬は今、大福亜子が「まこと動物病院で」と言ったことに気付いた。ということは、彼女がその里親という事か?  百瀬の脳は起動しない。Mホテルで老婆の顔を見た時、一瞬にしてパズルがはまっていったのに、亜子の顔を見ても、脳は止まったままだ。 「お茶をいれます」と言ってみた。言ってから、まだ玄関に立っていることに気付いた。  とりあえす靴を脱いでみる。玄関に女性ものの靴がある。小さい。どんなに態度がでかくても、女の足はこんなにも小さいのだ。妙なことに感動する。  とりあえずやかんに水をいれてみる。火を付けてみる。換気扇をまわしてみる。ぶーん、と小さな音がして、しずまった空気をかきまわしてくれる。  やかんを見つめたまま、棒立ちでいた。背中を向けたまま、質問をした。 「まこと先生とお知り合いで?」 「ええ、中学の頃からお世話になっていて」  百瀬は振り返った。パズルがひとつはまった。ただし次々とというわけにはいかない。  百瀬は亜子と二メートルの距離を保って、胡座《あぐら》をかいて座った。お客さんが正座なのに、自分が胡座とは失礼だと思ったが、百瀬はこのアパートで正座をする習慣がなく、自然に胡座をかいてしまったのだ。階段から落ちた時にできたズボンのすねの穴がめりりと音をたてて広がった。正座をし直すのも変なので、そのままにしておく。ガスの火の音と換気扇の音が合わさって、なにも話さなくてもそう気まずくもない空気だ。 「大福さんは、世田谷にお住まいですか?」  亜子はうなずいた。テヌーは亜子の膝から降りて、大あくびをした。 「タマオは大往生でした」亜子は言った。  世田谷猫屋敷で猫たちのリーダーとなり、独り住まいの老婆の心を支えていたタマオ。片目を患《わずら》い、腎臓《じんぞう》に病気を持っていたので、引き取り手があるかと心配だったが、すぐに里親が決まったと連絡があり、うれしかったのを覚えている。 「あのときは、お世話になりました」  亜子は両手をつき、頭を下げた。百瀬は心底混乱し、この女は誰だろうと疑問に思った。大福亜子とは思えない。第一、声が違う。 「ナイス結婚相談所にお勤めですか?」  百瀬が聞くと、亜子はあきれたような顔で「ええ、もちろんです」と言った。 「すみません、なんかちょっと、混乱してて」  こんなとき、煙草を吸う人間だったら、煙草を吸って心を落ちつかせるのだろうと百瀬は思う。 「ごめんなさい。わたし、百瀬さんに、合わない人ばかり紹介してしまって」 「そんな、大福さんのせいではありません。わたしの不徳のいたすところです」  そう言われて、亜子はばつの悪そうな顔をした。勇気をふりしぼるような口調で、次のように言った。 「違うんです、わざとなんです。わたし、わざと合わない人を選んで紹介したんです」 「え?」  やかんがしゅうしゅうと鳴り始めた。 「ひとりめから全部です。わたし、プロです。こう見えて、有能なんです。写真をひとめ見たらわかります。この女性はあなたを断るだろうって。見事に当たったでしょう? 三十一人目は誤算だったけど」 「ど、どうして? どうしてそんなひどいことを! わたし、何かあなたの気に障ることしました?」  亜子は唇をかみしめ、ただまっすぐに百瀬を見つめる。悪意はなさそうだ。 「そうか。なぐさめてくれているんですね? わたしが三十人に断られたのは、ご自分の責任だと。ご親切にありがとうございます。もう気にしないでください」  百瀬はやかんのしゅうしゅうが気になる。済んだことはどうでもいいから、話を切り上げて、テヌーとの最後のひとときをゆっくり過ごしたい。 「大福さん、だってそんなふうにあなたが、わたしに、その、意地悪……ではなく、熱意をもたない仕事をしたとして、何かあなたに得がありますか? わたしの実績はあなたの実績であって、社内評価にひびくでしょうし、そもそも写真だけですべてを操作できるなんてそんなこと」 「念入りに計画して実行したんです。待ち合わせにゴルフマガジンを持って目印にしろと言ったのも、作戦のひとつです。当然お相手はあなたの趣味がゴルフだと思います。どこのクラブ会員か、聞かれませんでしたか?」 「あ、はい、なんどか聞かれました」 「そこであなたはゴルフをやってない。やったこともないと答える。相手は弁護士目当ての女性です。ゴルフは経済力の象徴ですし、そういうことに価値を置くタイプの女性なら、必ずがっかりします。これは一例です。ほかにもいろいろ作戦をたて、実行しました」  やかんがいよいよしゅうしゅうと鳴る。百瀬は立ち上がり、火を消した。お茶をいれる気はとうに失せている。  亜子は百瀬を下から見上げて言った。 「おわびに三十二人目を紹介します」  百瀬は不愉快であった。自分は結婚相談所のカモにされていたのだ。おかげでこっちは三年間を棒にふった。もう二度とかかわりたくない。 「いいです、もう」 「今度はぜったいです。だいじょうぶです」 「いいですって」  亜子は立ち上がり、叫んだ。 「いいから紹介させて! 誰でもいいんでしょう?」  百瀬と亜子はにらみ合った。  この女はどこからこんな声を出しているのだろうと、百瀬は思う。六番室の女ほどには艶がないが、しっかりとした中にも女性らしさがあり、妙に耳に心地よい。ずっと聞いていたいような、飽きのこない、凛とした声だ。ひょっとして今までの声は作っていたのだろうか。  なぜこの女はドスのきいた声を作り、見合いの邪魔をしたのだろう? 「わたし」と女は言った。  百瀬は次の言葉を待った。 「わたし」  なかなか次の言葉が出てこないようだ。 「お茶をいれましょう」  百瀬は言い、茶筒に手をのばすと、亜子の手が先に茶筒をとった。 「わたしです」 「は?」 「わたしと結婚してください」  百瀬は亜子の顔を見た。  眉が一文字で、まっすぐな瞳だ。肌の色は白く、頬は赤い。短い前髪からのぞく額は決意に満ちている。額だけではない。からだじゅうが、決心のかたまりである。 「百瀬さん、誰でもいいっておっしゃいましたよね? 選ぶの苦手でしょう? わたしが選んであげます。わたしです。絶対幸せになります。わたしはもうずっと、あなたのことが好きだったんだから」  百瀬は耳を疑った。 「わたしにとっては初恋です。初めてあなたを見たのは法廷です。自分が依頼した訴訟がどうなるのか、心配で傍聴していたのです。おばあちゃんの生い立ちをあなたは時間をかけて説明していましたね。とてもあたたかい目線でした。あのおばあちゃんに優しかった大人はあなただけです。あなたのあの弁論から、法廷の空気ががらっと変わってゆくのを感じました」  そこまでひといきにしゃべると、いったん息を整えて、亜子は言った。 「あなたは立派でした」  百瀬は息を飲んだ。 「あの頃すでにあなたはおとなだったし、わたしは中学生で、それはもうほんとうにただの幼い初恋だったけど、まさか大好きなあなたがわたしの職場に現れるなんて思わなかった。驚いたけど、気付かれないよう三年間、一生懸命つっぱってきました。そしてごめんなさい、あなたの見合いの邪魔をしました。誰にもとられたくなかったんです。いつも不安でした。予想がはずれて成立したらどうしようって」  百瀬は動けなかった。なにか言うとか、動くとか、なにかしなくてはと思うのだが、どうにもできないのだ。 「あなたが会員証を返却して、七番室を出て行った時、もうあなたに二度と会えない。そう思ったら、ここ、そう、胸が痛くなって、わたし、気付いたら天井を見ていたんです。涙をこぼさないようにしたら、自然にそういう姿勢になって。おかあさまがあなたに教えてくれた方法です。困ったときは上を見ろ。それって泣かないおまじないだったんですね」  百瀬はハッとした。  七歳の時に母と別れて三十二年間、泣いたことがない。泣いたのは、さっきテヌーと会えなくなると思った、あのとき一回だけだ。あらためて過去を振り返ってみる。あんなことや、こんなこと、打ちのめされた過去の出来事。いちいち泣いていたら、立ち上がることはできなかっただろう。それはすべて母のおまじないのおかげだったのだと気付かされ、胸がいっぱいになった。  自分が気付けなかった母の思いを、こんなに軽々と見抜いてみせるなんて、女って、やはり、すごいんだ。 「前頭葉に空気を送ると、たしかにアイデアが浮かびますね」  すごい女は言った。 「わたしは気付いたんです。あなたはもう会員じゃない。わたしはあなたに気持ちを伝えてもいいのだと」  百瀬は馬鹿のように立ちすくんでいた。  亜子は「わたしがいれますね」と言って、茶筒のふたを開けようとした。しかし、なかなか開かない。それは力が要るのだ。女の力では無理だ。  百瀬は亜子から茶筒を取り返し、ふたを開けた。  パカン、と乾いた音がした。どうしてだか茶葉が飛び散った。茶筒をさかさまにしてしまったようだ。畳の上に茶葉がざあっと広がった。テヌーは頭から茶葉をかぶって、おおいにびっくりしたあと、面白そうに匂いをかいだ。  百瀬はいい香りだと思った。  ちょうどそのとき、「いい香り」と亜子が言った。      ○  たんぽぽが咲いている。そんな季節になったのだ。  百瀬の足取りは軽い。長引いた犬の訴訟はようやく決着がつき、和解が成立した。赤井玉男からは司法試験に受かったとうれしそうな報告があった。  秋田の靴屋は順調らしい。大河内の新しい運転手は律儀で、社長と馬が合うらしい。大河内はときたまチンチラの家に帰るらしい。そして百瀬ももうすぐ、新居に移れそうだ。つつましいが、動物が飼える家だ。テヌーは結局、今も百瀬のアパートにいる。せっかく引き取り手が現れたものの、テヌーと離れ難く、大家に了解を得て、特別に置いてもらっている。すっかり大きくなった。成猫だ。  朝の出勤の足もはずむ。もちろんサクライの靴だ。  事務所の経営もまあまあだ。ドアの塗り替えもさっさと済ませよう。場合によっては自分で塗り替えたっていい。猫弁なんて落書きはどんどん消してやれ、と思う。  ペンキのことを考えたからか、ふいにペンキの匂いがした。でもおかしい。匂いが鼻にまとわりつき、消えない。気のせいではないようだ。野呂が気をきかせて業者に頼んでおいてくれたのだろうか。  事務所が近づくにつれ、匂いが強くなり、百瀬の背中に悪寒《おかん》が走る。  あっ、と思った。  ドアはすでにまっ黄色に塗られており、七重が自慢げに立っている。足元にはペンキの缶があり、手にはハケを持っている。  七重は百瀬に気付いて、笑顔を見せた。 「先生! どうです?」 「すごい」 「でしょう? 前回と同じ色、ようやく見つけて買って来たんです」 「すごい色ですね」 「ムラなく塗りました。これであと三年は大丈夫です」 「あと三年」百瀬は出かかったため息を飲み込んだ。  真っ赤な落書きは強烈な黄色で抹殺され、あとかたも無い。見事だ。  七重はハケを持つ手で鼻の下をこすった。顔や髪のあちこちに黄色いペンキが付いている。 「わたしからのプレゼントです」  七重は自慢げだ。 「先生もやっと嫁のきてが決まったでしょう? あたしゃうれしくて。いいですか? 相手の気が変わらないうちにさっさと式を挙げてしまうんですよ。今は入籍だけ、なんてカップルもいますが、そういうのは好きじゃありません。お式はするべきです。理由なんて考えてはいけません。みんながすることはしておくに限ります。  あ、このペンキは自腹で買いました。作業は早朝、時間外にやりました。純粋にわたしからのご祝儀で、野呂さんは関係ないですよ」 「七重さん」 「わたし、先生が自慢なんですよ。今までいろいろ文句を言ったりもしましたが、心の中では日本一の弁護士だと思っているんです。  実はもう、それこそ大昔のことですけどね、わたし、息子をひとり亡くしているんです。まあ、あとふたりいますからね、寂しくないでしょうと言われますけど、たったひとりの子どもを失ったって、十人のうちのひとりを失ったって、その子を失ったことには変わりないんですよ。  交通事故でしてね、相手は無免許だったんです。無免許運転は罪だと思うんですけどね、おまけに未成年だったものですから。子どもが子どもをひいちまったんで、罰らしきものは無いんですよ。うまく言えませんが、その子は周囲がそうっとそうっと扱っていました。子どもですからね。  うちの子はもっと小さい子どもでしたけどね、無惨な死に方でしたよ。見ない方がいいとか男どもは言いましたけどね、わたしが生んだ子ですから、その子の身に起こったことは最後まできっちり見届けるべきだと思って、わたしはね、母親なんですから。見届けました。むごいことでした。  相手の子はきっと今頃人ひとりひいちまったことも忘れてどこかで幸せに暮らしているんじゃないですか。いいんですよそれで。忘れないと生きちゃあいけませんからね。法律をどうこう言うわけでもないですよ。でもあのとき、なにかこう、わりにあわないような気がしたものです。  もし、もしもですよ、あのとき百瀬先生がこちらの弁護士だったら、なんてふと思うんです。こちらじゃなくてあちらの弁護士だったとしても、なにかこう、救いみたいなものがあったんじゃないかと思ったりしますよ」  百瀬は七重を見た。どこに感情を入れてあるのか、すっきりと明るい笑顔だ。 「わたしこれでもね、ここで働き始めてから少しはですけどね、勉強したんです。法律ですとかね。お役に立てればと思いまして。まあ、ほとんどわかりませんでしたけどね、わかったこともありますよ。弁護士バッジの意味。あれ、ひまわりのデザインなんでしょう?」 「ええ」 「太陽に向かっている、正義と自由の花ですよね。わたし、だからこのドアはこの色しかないと思っているんです」  百瀬ははっとした。この色はたんぽぽではなく、ひまわりの色だったのだ。  七重は色むらを見つけ、ちょいちょいと塗り重ねた。そして満足したように、腰に手をあてて背筋を伸ばした。 「あらもう始業時間ですね」七重は腕時計を見た。「ドアノブはさわっていいですよ」  百瀬は鼻水をこらえ、一瞬、太陽を見上げた。それからゆっくりと正義と自由のドアを開けた。 [#改ページ] [#改ページ] [#ここからゴシック体] 第3回TBS・講談社ドラマ原作大賞受賞作 [#見出し]『猫弁 天才百瀬とやっかいな依頼人たち』    (応募時タイトル『猫弁〜死体の身代金〜』)講評 講談社 評 [#ここから2字下げ]  原稿のレベルの高さに、選考委員一同、驚きました。  東大卒の天才弁護士でありながら、お人好しで、ちっぽけな案件に一生懸命取り組んでしまうという、主人公の設定は、ある意味、物語の王道ともいうべき、ど真ん中。そのど真ん中の設定で、どう驚かせてくれるのかが評価の分かれどころだと思いますが、本作においては、心配ご無用。たっぷりと、物語の世界に浸らせてくれます。  人物のキャラクターやその倫理観、行動原理が自然体で、作為を感じさせないために、ラストのオチでは、「こうでなくっちゃ」という、笑いと、じんわり涙を楽しむことができます。  数多く新人賞はありますが、いままた、小説の世界に新しい担い手となる書き手が現れたことをうれしく思います。 [#ここで字下げ終わり] TBS 評 [#ここから2字下げ]  最初は無関係に思われた登場人物やエピソードが徐々に結びつき、最後は一つに収束して感動的なエンディングを迎える。この構成の妙もさることながら、よく練られた構成の中で登場人物たちが活き活きと動いているのが素晴らしい。とくに主人公の猫弁こと百瀬のキャラクターが良いです。百瀬は次々に理不尽な目に遭うのですが、それに対して怒りもせず、逃げもせず、最終的には克服していくところに、新しいヒーロー像の誕生を感じました。  さらに彼は7歳のときに母親に理由も分らず施設に預けられ、それからずっと天涯孤独の身。弁護士だけど。人の良さが災いして事務所の台所は火の車状態にある。こういったシチュエーションをことさら悲劇として描かず、主人公が前向きに行動する動機にしているところに作者のセンスを感じます。他の登場人物も色々な理由で心に傷を持っていても、懸命に前に向かおうとしています。そのため、読み終わるととても温かい気持ちに包まれます。  この作品はエンタテインメントであり、一所懸命に生きる現代人への応援歌であると感じました。 [#ここで字下げ終わり] [#ここでゴシック体終わり] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#地付き]本作品は書き下ろしです[#「本作品は書き下ろしです」はゴシック体]  [#改ページ] 大山淳子(おおやま・じゅんこ) 東京都出身。 2006年、『三日月夜話』で城戸賞入選。 2008年、『通夜女《つやめ》』で函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞グランプリ。 2008年、本作で第3回TBS・講談社ドラマ原作大賞を受賞。